恵みの報復

聖書箇所 詩編58編

 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム】
 しかし、お前たちは正しく語り、公平な裁きを行っているというのか、人の子らよ。
 いや、お前たちはこの地で、不正に満ちた心をもってふるまい、お前たちの手は、不法を量り売りしている。
 神に逆らう者は、母の胎にあるときから汚らわしく、欺いて語る者は、母の腹にあるときから、迷いに陥っている。
 蛇の毒にも似た毒を持ち、耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで、蛇使いの声にも、巧みに呪文を唱える者の呪文にも、従おうとしない。
 神が、彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。主が、獅子の牙を折ってくださるように。
 彼らは、水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て、なめくじのように溶け、太陽を仰ぐことのない、流産の子となるがよい。
 鍋が柴の炎に焼けるよりも速く、生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。
 神に従う人は、この報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう。
 人は言う。「神に従う人は、必ず実を結ぶ。神はいます。神は、この地を裁かれる」。

1.復讐の詩編
 おはようございます。今日は、少し変わった詩編を取り上げて、お話ししたいと思いました。旧約聖書の詩編は、古くから、信仰の財産として、キリスト教会の中で用いられてまいりました。わたしたちも、礼拝の中でこれを交読しておりますし、詩編は、時代を超えて、神を信じるすべての人々の歌であったのです。
 しかし、詩編は、聖書の中でも、独特の位置を占める書物であるといえます。詩編は、一方では、主を信じる「人間の祈り」でありますが、他方では、誤りなき「神様の御言葉」でもある、そのような書物だからです。
 人間の祈りが、いつしか神様の言葉になる。・・・そんなことが、ありえるでしょうか。逆に、どのようにして、清らかな神の言葉が、同時に、罪人の祈りともなるのでしょうか。
 実際に、詩編を読んでいますと、わたしたちが自分でするお祈りとは、大きく異なっていることに、しばしば思い当たるのではないかと思います。「これは、普通の祈りではない、とても自分の祈りにはできない」と、わたしたちはその時々に、気づかされてきたと思います。
 詩編を個人的な祈りとして、わたしたちが祈ろうとするときに、どうしても、そのようには心から祈れない、という箇所が出てくるのです。

 けれども、そうしたところで、わたしたちが、いつも自分の理解できる詩編だけ、自分にとって好ましい祈りだけを取り上げているとすれば、わたしたちは、決して、現在の自分以上のものには巡り合えないと思います。
 むしろ、受け入れるのに困難を覚えたときにこそ、わたしたちは、神様の秘義、恵みの本質に直面しているかもしれないのです。
 旧約がなければ、新約がないように、律法がなければ、福音がないように、十字架がなければ、復活がないように、わたしたち人間が躓くところには、本当は、すぐそばに救いがある、ということがあるかもしれないのです。
 ですから、わたしたちは、今回の詩編についても、粘り強い信仰をもって、思い巡らしてみたいと思います。この詩編も、人間の通常の祈りとは、違った響きを持っておりますから、簡単に通り過ぎるわけにはいかない、聞き捨てならないものを、含んでいると信じるのです。

 さて。先ほど、読んでいただきました、詩編58編は、聖書です。神の言葉です。しかし、この御言葉は、恐るべき「復讐の心」に満ちています。「報復の祈り」を持っております。こういう言葉が、聖書にあるということ。これを、どんなふうに考えたらよいでしょうか。わたしたちも、場合によっては、このように祈ってもよい、ということでしょうか。
 その答えは、差し当たり、「よくない」であるべきでしょう。わたしたちに立ち向かってくる敵に対しては、わたしたちのほうにも負い目がある、ということだってあるのです。
 わたしたち人間を正しく罰し、固い心を屈服させるのは、神様だけであると、わたしたちは、告白します。神様が、わたしたちを連れ戻すために、そのような「鞭」を使われることがあると、わたしたちは、認めます。
 ですから、この詩編の言葉を、そのまま、自分自身の祈りとして、祈ることはできません。わたしたちはお互いに、そうするには、あまりにも罪深い者であるからです。

 この祈りをするのに、ふさわしい方がいるとすれば、それは誰であるか。誰の前にも、完全に負い目のない人でなければ、このようには祈れません。この復讐の祈りは、気短な人間の、どす黒い願いなのではなく、罪なき人の祈り、清さを求める義の祈りであります。
 この詩編には、「ダビデの詩」という前置きがありました。この詩を祈っているのは、ダビデであります。が、彼自身は、決して負い目のない人ではありません。
 しかし、ダビデにおいて、「ダビデの子」と呼ばれるお方、イエス・キリストを用意なさるのが、この世界を救われる、神の御旨でありました。そのように、ダビデから、主キリストが出られることになっていますから、ダビデは、滅びてはなりません。彼は、命を得なければならないのです。
 ダビデは、自分自身のためには、決してあのようには、祈れなかったでしょう。わたしたちと同じ、ひがみっぽく、愚痴っぽい祈りしかできないでしょう。しかし、ダビデのうちには、イエス・キリストがおられます。神の国の小さな種が、彼の中には埋もれています。それゆえに、ダビデは、敵の前に滅んではならなかったのです。
 そのように、ダビデにおいて、罪なきキリストご自身が、祈っておられます。この方だけが、この詩編を本当に祈ることができるのです。「まことに、あなたがたは、正しいことを語ろうとしない。公平をもって、人の子らを裁かない。そうだ、あなたがたは、地に不正を行い、あなたがたの手は、ほしいままに暴力を振るっている」(1,2節)。

 このように、イエス様が祈られます。この世で、ピラトによって不正な裁きをお受けになった方、人の子らによって、暴力を振るわれた十字架の主が、「罪の世」全体を、訴えておられるのです。主がこのように告訴されるとき、わたしたち、すべての人間が、被告となっているのではないでしょうか。
 ここでは、世界のどこにでも見られる、ひとつひとつの具体的な不正や暴力が、問題になっているだけではありません。ここでは、この世の本質である、「神なきことの秘密」が、明らかにされているのです。
 3節「悪しき者(これは、「神なき者」という言葉です)は、母の胎内にあるときから背き去り、偽りを言う者は、生まれる前から、過ちを犯している」。・・・この世の悪の根を、このようにまで、深く、完全に見通しておられるのは、神の子キリストであります。

 わたしたち人間というものは-まことにおめでたい話なのですが-「この世は、きっと良いもので、どこまでも改良の余地がある」と信じて、いろいろなことを試みます。「生まれる前から、過ちを」。生まれたばかりの赤ちゃんに、誰が、罪深さを見るでしょうか。この世の良きことを信じて、わたしたちは、多くのことを始めます。
 けれども、そうしている間に、繰り返し明らかになってくるのは、この世界が、完全に良くはなりえないこと、それどころか、不正が消えることなく、常にはびこっているということです。わたしたちは、何かの機会に、そうしたことに気がついては、不安になり、憤ります。戦争が。家庭の不和が。裏切りが。どうしようもなく、この世界には残ります。
 そういうところで、この世の実態というものを、完全に見通すことができるのは、罪なき「神の小羊」だけであります。堕落したこの世の本質は、常に変わらず、そのままなのであり、サタンは諦めることなく暗躍しているのを、この方だけは、ご存知です。
 ですから、「神なき人間は、耳しいの蛇のようだ」と、主は言われます。耳の聞こえない蛇は、蛇使いの音色を聞き分けることができず、主人に向かって、噛みついてきます。
 ちょうどそのように、人間は、主人たるお方の御声を、聞くことができない。反抗的に噛みついてくるだけである。神様が、恵みによって、わたしたちの死んだ心を回復させてくださるのでなければ、わたしたちは、神の言葉を真実には聞くことはできない。むしろ、悪魔の策略に乗せられて、ますます頑なになるだけです。

2.報復を求める祈り
 実に、こうした認識から、この詩編は生まれています。この世界と人間のありさまが、そのようなものであるという認識が、祈りとなっているのです。
 もし、こういう事態の全体が「悪」であり、「敵」だとすれば、もはやいかなる人間の知恵も力も、役には立ちません。こういうところでこそ、神様の御名が、求められなければなりません。この背景のもとに、今、この詩の中で、おののくことなしには、その言葉を繰り返せないような、恐るべき祈りが始まるのです。

 ここで、敵に対して復讐してくださるように、神様に呼びかけられています。「神よ、彼らの口の歯を折ってください」。わたしたちが、何よりもまず、学ばなければならないのは、このことです。すなわち、神とわたしたちの敵、「真の敵」に直面しては、人として、ただ祈ることしかできません。
 わたしたち人間の、勇気や計画が、どんなにすばらしいものであったとしても-この「敵」の前では、まったく役に立ちません。それは、サタンの攻撃である。そのときには、悪魔をも支配なさる方、神ご自身の御手のうちに、戦いは任されなければならない。
 このような場面にあっては、神様に真剣に祈らざるを得ないということを、わたしたちが学ぶならば、それはまことに、すばらしいことだと思います。そうです、悪や悲惨に対して、復讐に復讐を重ねても、結局は、人間の負けなのです。あの、イラクやパレスチナでの惨状を見てください。
 聖書が教えております「復讐を、神様にゆだねよ」とは、こうしたことを言っています。「復讐は、わたしのすることである。わたし自身が、報復する」。

 それですから、わたしたち、神を信じる者は、自分で復讐するということ、憎悪するということから、自由にされたのであり、自由であるべきなのです。自分の怒りのために、復讐欲を満足させようなど、微塵も思わない人だけが、純粋な心で祈りうるのです。「神よ、彼らの歯を折ってください」と。
 それは、こんな意味でしょう。「神様、今、わたしが苦しんでいるのは、まさに、あなたの事柄なのです。あなたの栄光と憐れみが、汚されています。あなたの愛が、踏みにじられようとしています。どうか、正しい怒りを燃やし、あなたの敵を滅ぼしてください」。
 わたしたちは、あの詩編の言葉のすさまじさに、最初、驚いたのでありますけれども、それは、「御国を来たらせたまえ」と祈る、「悪より救い出だしたまえ」と祈る、信仰から出たものであります。
 後半で、ダビデは、この祈りは聞かれるはずだと、確信しています。「彼らは、流れ行く水のように、消え去るであろう」。速やかに、突然、神なき者たちは、失せ果てるでしょう。神の怒りは、敵の計画を取り払い、敵は何事もなしえないであろう。ついには、10節「正しき者は、この復讐を見て喜び、その足を、神なき悪しき者の血で、洗うであろう」!?

3.神の復讐を受けられた方
 ここに来て、わたしたちはもう一度、尻込みしてしまいます。みなさん、ご自分の足を、いくらなんでも、敵の血で洗いたいと思いますか。それを、心から喜べるでしょうか。・・・しかし、もし、わたしたちが、これを避けるとしたら、わたしたちは結局、何も理解していないのだと思います。
 神なき悪しき者は、神の栄光の前に、滅びなければならない。神様の復讐と、悪しき者の血を見て喜ぶ「喜び」におののいて、尻込みをする人は、この詩編を祈っておられるのが、主であることを、苦難の僕であられることを、キリストの十字架において、何が起こったのかを、いまだに知らない人ではないでしょうか。

 そうです、神なき悪しき者に対する、神の復讐は、すでになされています。わたしたち罪人の血は、すでに流されたのです。神様の義は、すでに成就しています。イエス・キリストの十字架において、それらのことは、起こりました。イエス様は、あのとき、まさにここで詠われているような、神の怒りの復讐に撃たれた。キリストは、そこで、神なき悪しき者の死を、死なれた。
 わたしたち自身が、神なき悪しき者として、主の十字架のもとに立つならば、これまでの、すべての理解できなかった、この詩編の謎が、明らかになります。この詩編が成就するそのときに、罪なきキリストが祈られました、神に復讐された者として。わたしたちのためのとりなし手として。
 「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からないのです」。神の復讐を受けられた方、この方だけが、神なき悪しき者たちのために、赦しを求めることができます。

 「正しい者は、このような復讐を見て喜び、その足を、神なき悪しき者の血で、洗うであろう」。これはまさに、十字架の血潮を思わせるものです。わたしたちは、その血で足を洗うどころか、その血を飲みます。「この杯は、罪が赦されるようにと、多くの人のために流す、わたしの血、契約の血である。みな、この杯から飲みなさい」。
 イエス・キリストの血潮は、恵みの血となって、神の怒りのもとで流れ出ました。神の赦しと神の命が、わたしたち自身のものとなるために、主は今日も、パンとぶどう酒を備えていてくださるのです。
 キリストの血が、そのように、わたしたちの贖いとなり、あらゆる罪から、あらゆる怒りと悲しみから、わたしたちを洗い清める。それは、奇跡です。

 詩編、第58編。復讐の詩編の中から、悪しき者のために撃たれ、わたしたちの救いのために死なれた、血に染める救い主のお姿が、現れてきます。この恵みの場所から締め出されている人は、ひとりもいない。この地上には、罪のない者がひとりもいないように、このキリストの赦しに招かれていない人も、ひとりもおりません。
 「そして、人々は言うであろう、『まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある』と」(11節)。正しい者への報い。それは、十字架の恵みにほかならず、罪深い怒りからの解放、罪赦されて神と共に歩むことに、ほかなりません。

 やがて、終わりの日が来ます。その最後の審判の日に、わたしたちが見るであろうこと、正しい者の救いと、神なき悪しき者の滅びとを、十字架についたお方は、まだ今は、ご自身の憐れみのうちに、隠しておられます。
 わたしたちは、その日までは、その平和と勝利とを、完全に手にすることはないでしょう。それまでの間、サタンが不正を行わせ、偽りを広めて、わたしたちを苦しめるかもしれません。痛みがあり、悲しみがあるということが、繰り返されるかもしれません。
 しかし、主は、わたしたちのために、今も、この詩編を祈っていてくださる。「悪しき者たちの歯を折ってください」と。「その牙を抜き取ってください」と。そして、「わたしの血で、その身を白くせよ」と。
 わたしたちは、この詩編を、心から感謝して、祈りたいと思います。わたしたちはこれを、主の守りの歌、祝福の歌として、歌ってよいのです。
 神様が、わたしたちのすべての敵を、十字架のもとに来させて、彼らにも恵みをたまわってくださるように、また、キリストが目に見えるお姿で来られて、神の国を完成してくださる日が早く来ますように、祈りたいと思います。
by PSALM23-6 | 2007-10-26 09:19 | 聖書からの説教 | Comments(1)
Commented by PSALM23-6 at 2007-10-26 09:27
すべての詩編の、真の祈り手は、イエス・キリストであります。この方だけが、本来的な賛美の、願いの、嘆きの、そして怒りの行為者であられます。わたしたちは、この方に従って、この方に倣って、それに唱和することができるだけである。しかし、この方は、わたしたちのうちにおられ、わたしたちもこの方のうちにいるゆえに、この方のすべての思いは、恵みにおいて、わたしたちの思いとなることが許されている。主は、そのようなことのために、神人であられるのであり、詩編もまた、祈りでありつつ御言葉であるのである。
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