律法よ、洗礼を受けよ

聖書箇所 ヨハネ1:17

 律法は、モーセを通して与えられ、
 恵みとまことは、
 イエス・キリストを通してきたのである。

 恵みとまことを通さない、死に至る律法というものがある。モーセは、そんなことは意図しなかったが、この世の人間と不信仰とは、いつもそんなふうにしか、神の言葉を解さない。そして、そういう意味での律法は、あなたの弱さや不安、苛まれた良心に向かって、「これは、あなたに命じられている。だが、あなたはそれを、行っていないではないか。だから、あなたは咎められるべきだし、キリストを口にするべきではなかろう」と言うことだろう。
 しかし、そのような、福音に対する悪意ある挑戦や、失望へといざなう力があるときにこそ、信仰が奮起する絶好の機会である。あなたはそこで、キリストを信じる信仰を高く掲げて、その主張に突進し、律法の間近に迫って、なお平然としていなさい。「神の律法よ。あなたは、随分と悪用されているようだ。福音によって、洗礼を受けなさい。神の約束に偽りはなく、その恵みは終わることがないのである」と。

 それゆえに、敵意に満ちた律法的精神が、あなたが罪人であり、天国へ行く資格などないと訴えるならば、それはまったく、その通りであると肯定するがよいのだ。けれども、それが実際に、判決として神によって実行され、あなたが罰せられ、地獄へ行くと続けるならば、あなたはそれを決して認めないで、強く信仰を守り、こう宣言するがよい。
 「律法によれば、わたしもあなたも、確かに、主によって罰せられ、見捨てられる他ない、哀れな罪人である。だが、わたしには神の福音がある。福音を通さない、単なる律法に対しては、わたしは神に控訴できる。神は、律法の上なる司として、恵みの御言葉をお与えになられたのだ。それがキリストの福音であって、罪の赦しと義、命とを与えてくださるのである」と。

by PSALM23-6 | 2021-07-30 19:54 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)
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