牧会の確立

第一章 神学と教会の課題:牧会

 「牧会が教会にとって必要であるのは、神の言葉を、個人的に伝達するためである。それは、教会のすべての正当な働きと同じように、教会に与えられている神の言葉の、罪人を刷新する主の力に基づいている。神の言葉は、さまざまな形態で伝達されることを求めているのである」。

 牧会というものは、教会の中で、すでに確固としたものであると考えられている。ところが、それがいったい、厳密に言って何であるかについて問うてみると、驚くほど不確かであることが明白になる。牧会の存立も、その正当性も、それを実際に形作ることも、まったくもって教派、教会、牧師によってバラバラなのだ。牧会は、議論の余地のない確かさと力によって、明確に実施されているどころではなく、むしろそれは、神学と教会にとって、今日、焦眉の問題になっているのである。
 したがって、これから牧会について議論する以上は、その基礎づけというところから始める以外にないであろう。そこで、まず問わなければならないのは、神学と教会の内部で、牧会が占めるべき位置は、どこであるのかということである。神学の教科書は、異口同音に「牧会は、実践神学に属する」と答えている。すなわち、牧会ということで意味している中心は、「説教の実践」ということであって、広義における説教、個人的な説教が、そこで問題になると言えるのだ。

 しかし、説教と牧会は、一般的には、かなり距離のあるものだと考えられているし、教会の説教というものは、聖書の講義というような単純なものではなく、実際には、非常に複雑な行為となっている。本質的に、説教は、いくつかの神学学科の集合成果だと言ってよいほどなのだ。説教は、その形式からも内容からも、聖礼典や祈祷と密接に結びついている。礼典や祈祷の実施や執行は、御言葉との関係において、実践的に考察され、教えられるべきである。また、神の言葉は、公の説教という形態のみならず、未洗礼者の準備教育や、教会教育において、人間個人に対し、もっときめ細やかにに行われているであろう。まさしく全人間が、その総体における人間それ自体が、神の言葉の前にあって、恵みに捕らえられ、動かされるのである。
 説教と聖礼典の告げることは、神の生ける言葉であられるキリストが、人間の全生活を捕らえ、清めてくださるということである。そこで、考えられているのは、国内伝道や海外宣教を含めた、すべての教会の行為である。教会は、御言葉の恵みと力を、もっと広い、人間によってまだ触れられていない、この世における生活領域の中へと運び込むのである。

 特に、その対象が、多種多様を極める「個人」に絞られたとき、その御言葉の伝達は、牧会と呼ばれるのである。そうであるから、この牧会なる行為は、説教や礼典に代わることができないが、そこから流れ来る、必然的な憐れみの実践として、それに対する応答として、位置づけられる訳である。それゆえに、牧会の内容は、神の言葉の公的な告知と、根本的に変わりがないし、変わるべきでもない。ただ、それは優れて私的な形態を取っているのである。したがって、次のように表現することが妥当であろう。
 「本来の牧会は、説教そのものの中で行われる。しかしながら、説教し、教育をし、礼典を行ったからといって、それですべての魂の養いが、事足りているとするならば、それは牧会というものを、あまりにも狭く限定することになる。御言葉の公的な用い方の他に、特殊な用い方が付随して来なければならない。それを特に牧会と言うべきである」と。
 もし、牧会がそのようなものであるのならば、それは確かに特別な意味で、説教者の仕事であるのだが、原則的には、全教会員が、牧会に参与すべきであり、牧会に召されているのである。教会とは、主キリストにおいて、主の霊と言葉を通し、この世から集められ、ひとつとされた者たちの、集合体なのであって、彼らは互いに主の肢体であり、それぞれの職務と仕事、また、霊的な配慮を託されているのである。ただ牧師ばかりでなく、長老たちによってもなされるべき家庭訪問を、確固たる制度として導入したのは、カルヴァンであった。牧会とは、説教に基づく対話の形で、個人に福音を伝達することなのであり、それは説教者のみならず、個々の教会員によってなされるのである。

 だが、神の定めたもう秩序、その順序を逆にすることは、いつでも恵みの力を鈍らせ、ついには自らの破滅を招く。説教があるから牧会があるのであり、礼拝があるから個人的な対話もまた、成立するのである。現代のわがままで恣意的な要求は、牧師職とその教会の奉仕のすべてを、私的牧会にだけ、向けさせようとする傾向にある。そこでは、御言葉や聖餐式の執行でさえも、それが個人に対する話しかけ、呼びかけにどこまで役立つか、という視点に従って、評価されようとしているのである。
 人間個人は、教会においてキリストの肢体になることによって、確固とした個人として成立するのであるが、昨今の教会においては、事情はむしろ、逆となっている。極めて個人的に、悔い改めたキリスト者が、教会に先立ってしまい、キリストの群れに属するということでなく、私的に主とつながっているということが、人をキリスト者とするという訳だ。主が「この岩の上に建てる」と言われた教会ではなく、個人的に目覚めたキリスト者の、バラバラな、あるいは、特定のカリスマに規定された総体として、教会があるにすぎないのである。
 この場合、礼拝といえども、本質的には、こうした個人主義的な対話、悔い改めた個人相互の交わりがなされる場所となる。しかし、そのような傾向が支配的である場では、聖書が解釈されるときですら、神の言葉そのものの、本来の意味での恵みと赦しの告知よりも、覚醒し、悔い改めた、特異な個人が、神の言葉と共にした、自分の個人的経験を語ることに、中心的な部分を費やしてしまうのである。それは意図的に、意識的に、公のキリストご自身の告知を、不適切に私物化することであり、宣教を特定の小さな個人に結びつけてしまうことである。この種の信心深い者たちは、偉大な牧師や指導者たちの伝記を誇りとし、その生活記録を新しい律法とし、教会の通常の説教に対して、不当に攻撃的であることがしばしばなのだ。

 上記のような牧会に対する姿勢は、いわゆる「敬虔主義」に広く見られ、日本の教派の多くが含まれている。しかし、このような傾向の奉仕者たちは、他人の経験や体験ばかりでなく、自分自身の魂の経験について語ることをひどく好み、自分を鏡に映して見ることに満足し、教会の信頼を得ることを誇り、それが日に日にひどくなっていくのが常である。そして、そのことによって、容易に牧師の信仰生活は、おしゃべりと嘘、虚栄心の中に、崩れていくのである。
 それらのものには、それにふさわしい位置というものがあるのであって、決して第一に来るのではない。ここでは、私的な牧会それ自体が否定されているのではなく、魂の状態の告白や、人間の霊的な迫力、自分で清さを作る道などに、重点を絶対的に移してしまうことに対する警告がなされているのである。確かに、あの敬虔主義的な信心の中には、正統主義が見過ごしにしてきた、貴重な長所がある。だが、敬虔主義が牧会をする際の、一定の人間よりのやり方には、後戻りが命じられるのである。主がお定めになられた、基本的な手段、御言葉と礼典、賛美歌、説教における聖書解釈こそ、牧会の軸とならなければならない。
 死せる正統主義に対する強い抗議として、敬虔主義的な牧会というものは起こってきたのだ。本当は、その根拠と正当性が、神の言葉に根差し、御言葉に基づく教会の中で、絶対的に正当な位置を占める牧会が、存在すべきなのである。そのような牧会が、あるのだろうか。その根拠と形態は、どのようなものであるのか、そのことの究明こそ、今、ここで課されている重い命題に他ならないのである。

by PSALM23-6 | 2018-10-19 22:03 | 牧会の確立 | Comments(0)
<< 新約概説 新約概説 >>