現代的十戒論

第六の戒め 積極的な隣人愛

 十戒の中では、この戒めが最も分かりやすい戒めであり、時代を超えて、一番支持を得やすい律法だとされている。すなわち、たいていの戒めは、今日の社会と教会の複雑な様相において、緩和されるか、相対化される傾向が強いのに対し、第六の戒めは、むしろ、これを先鋭化して適用されることが多い、特異なものであると。

 しかしながら、その内容をあまり単純化することはできないであろう。ヘブル語の原義から言っても、その「殺人」の性格について、個人的な敵対者の殺害、つまり、生命を損なおうとする恣意的な行為が第一に問題となっているが、それと同時に、律法に反し、共同体に反する殺人行為が、問題になっているからである。
 旧約聖書では、この戒めによって、イスラエル人の生命は、不当で許されない攻撃から守られ、ときには死刑や戦争の存在が、あまり珍しくなかった時代に、その安全を確立させていたのであった。これに対して、新約聖書の山上の説教では、この戒めの意義と効果を、もっと徹底させたものにしている。

 むろん、この単純に見える戒めにも、実践的で倫理的な、判断を求められる事例、極端な事例というものがある。後に扱う、自殺や安楽死、妊娠中絶、死刑、戦争などが、信仰に関わらない場面でも、しばしば論争の的になっているのだ。多くの点で、第六戒の解釈や妥当性は、再び流動的になっているし、神学的にも、これを一括して一言で結論することは難しいだろう。わたしたちにしても、これについて初めから、その呼吸を飲み込んでいる訳ではなく、その真意を会得してはいないのである。

 とは言っても、この戒めの核心は、かなり確固としたものであり、問題なく承認されよう。人間が、人間を殺す存在になることは、基本的に許されない、人間の生命は、恣意的な、軽率に根絶されることから、防御されるべきであるのだ。殺人は、人間的にも神学的にも、隣人に加える最後のことであり、最悪のことなのである。
 殺人において、人は、隣人との関係における最後の境界、神的な境界を踏み越えてしまうからである。確かにそれは、一度行われてしまうと、もう取り消すことができず、もはや再び関係を改めることができない破壊をすることで、人間側の一方的な解決が、問題の中で決定的になってしまう事態となるのである。

 そのようにして、殺人者は、自分を生と死を超えた「主人」にすえてしまい、創造者にだけ属する生命の権威を横取りし、明らかに第一戒を退けてしまっているのである。創世記9:6で、殺人によって注がれた人間の血が、「神はご自分のかたちに、人を造られた」ことを理由に、土の中から抗議しているのは偶然ではなく、この問題においては、神と人が強く関係しているのである。

 しかし、この世界では、何としばしば、この不可能性から可能性が生じ、身近な現実となることだろうか。聖書はすでに、アダムの子らを描くときに、非常にすばやく殺人を、それも兄弟間の殺人を描くことによって、まさにその現実性を示している。罪人の世界では、「可能ではあるが実現すべきではないこと」が、すぐに「実現可能で、起きてしまっていること」に代わり得るし、それが恐ろしく現実的であることが語られている。
 そして人間は、この普遍的に明白な事態を覆い隠すため、いつも工夫をこらして自己正当化の道を見出すのである。これが、罪の恐ろしさであり、悲惨を根深いものにする。しかし、神の戒めは、その神学的な展望において、それを阻む。個人の生命的な権利は、人の恣意によって相対化されてはならないのである。殺人によって闘争を解消しようとする、すべての試みに対し、「あなたは殺してはならない」という提言が、神によって妥当させられているのである。

 さらに興味深いことには、カインとアベルの物語においては、事柄はそこにとどまっておらず、その後の殺人者の運命をも扱っている。それは、失われた殺人者の権利をも保証する、神の保護の物語なのである。カインの行ったことは、神の言葉によれば、死刑に値する。しかし神は、彼自身を人々の復讐の行為から守られる。「主は、カインを見つける者が、誰も彼を打ち殺すことのないように、ひとつのしるしをつけられた」。
 神によるこの保護は、限界のない破壊的復讐の繰り返しを防いでいる。罪は、常にエスカレートする傾向を持つものだ。旧約聖書の「目には目を、歯には歯を」という律法は、無慈悲に響くけれども、その成立の文脈においては、すでに罪と悪の連鎖を断ち切る意味での試みのひとつなのである。殺人者もまた、神の律法の外に置かれることがあってはならないからだ。それゆえに、カインには、しるしが神によってつけられている。

 そして、新約聖書においては、この方向性が受け継がれ、非常に深められる。復讐の律法は、もはや単に制限されるだけではなく、明白に神の御手だけに委ねられる。「愛する者たちよ、自分で復讐しないで、神の怒りに任せなさい。復讐は、神のものであるから」。とりわけ、山上の説教においては、第六戒の徹底化が、簡潔に記されている。「しかし、わたしはあなたがたに言う、兄弟に対して怒る者は、誰でも裁判を受けなければならない」。
 主イエスによれば、殺人は、身体的な意味でだけ防ぐのでは十分ではない。もちろん、そのことが問題の第一ではあるが、もっと内面的で積極的なことと、それは関連しているのである。敵対関係が外に向けて爆発するのは、積もり積もった憎悪の結果であって、殺人には、内外のつながりとからくりがあるからである。そのからくりを見出し、正しく防御することが、第六戒の誠実な受容をなすのだ。

 この教えに従えば、戒めの求める内容は、殺人がないことだけではなく、隣人に対する連帯的な方向づけの中で、生命を危うくするような事柄を、未然に、共同体的に予防することが、問題となっている。新約聖書では、実際に、復讐を神のものだと論じた後で、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、渇くなら、彼に飲ませなさい」と記される。さらには、「善をもって悪に勝て」と。
 山上の説教における、この戒めの解釈も、隣人に対する日常的な好意ある応対は、「あなたが彼と一緒に道を行く途中で」、必要なのである。「第二の石板」の積極的な総括が、この戒めをして、隣人愛の中に集中されるのだ。「あなたは殺してはならない」という律法の意図は、愛を与えることにおいて実践される、他者のための共同体的愛の中に、探求されるべきなのだ。

 実は、こうした認識は、すでに宗教改革者の実際的な教会指導と生活において、共有されていた。それは、今日でも、特に現実的な様相を帯びてきており、人々の手助けとなる社会的、構造的な側面が強調されてきている。ますます相互に依存し合う人間の世界にあって、殺人という事柄は、単なる近隣世界だけではなく、少し離れた周辺世界においても、直接関係する。
 この戒めの精神から、自然開発や人種差別、人権に関する様々な主張や運動が、キリスト教会の中に生まれてきた。兄弟たちのパンを求める動きも、単に感情的で博愛的なものではなく、冷静に、隣人愛のための親切な構造を作ることに尽力する中で、啓発されているのである。殺意の段階と理由づけには、いろいろな程度と広がりがあるが、教会と社会の信仰的良心を目覚めさせておくためには、「殺人とは、すべての各人の存在の条件を狭めることであり、たとえ不注意や無関心によって起こったとしても、人を窮地に陥れることである」と認識しておくべきであろう。
 うぬぼれによるカインの罪だけではなく、近くや遠くの隣人の困窮に対する関係の喪失をもたらすもの、すなわち、怠惰と不注意という、わたしたち人間の罪のひとつもまた、第六戒の射程の中でとらえられている。それは、生活における異常な日においてではなく、普通の日に襲ってきて、人間の心を蝕むのである。

 以上のことが、第六戒の基調である。が、いくつかの限界的な例がある。すべてに渡らないが、それらを取り上げよう。
 まず、自殺である。これが特別な例となり得るのは、自殺において行為者は、自分の手を他者に対してではなく、自分に対して振り上げるからであり、それほどまでに自分自身に固執せざるを得なくなっているからである。古代ストア派の「自由」の概念を持ち出すまでもなく、自分の生命を終わらせる、意識的なやり方は、多くの悩める人たちに共感され、今や教会の中でさえも、理解されることとなっている。病や老年、深い絶望と苦しみが、その引き金であり、自ら死ぬことは、そこからの解放を求める行為なのであると。

 自殺には、他の型もある。例えば、信仰のゆえに拷問にかけられ、その責め苦の末に、神の栄光を汚し、仲間の名前を漏らす可能性を阻止するために、意識的に死を求めた場合などである。それは、他者のための犠牲の自殺と言い得る。さらには、義憤による自殺というものが、昔からある。社会や教会を覚醒させるため、その冷淡な姿勢や閉じられた世界を解放させるために、命をかけた抗議としての、人間に責任を負わせる迫りとしての、自殺である。
 そして、普通の自殺がある。それは、成功しなかった人生に対する逃れであり、逃げ道がないと自ら考えた末の、壁を超える跳躍なのである。突発的な圧迫のもとに引き起こされる、衝動的な自殺があるし、何度も見せかけの上での行為を続けた後、その長い逡巡の後の自殺というものもある。

 キリスト教会は、自殺の差し迫った倫理的な問題性に関して、しばしば回答を遅らせ、また、不遜にも、自殺者の墓を他の一定の場所にまとめるなどの行為を行って、罪を犯してきた歴史を持っている。今日では、恣意的で利己的な意味での自殺と、自己犠牲としての自害を区別して、これに対応してきた過去もあるが、状況がますます複雑化する現代においては、それは、ほとんど満足できない代物になっている。信仰的に急務だと思われるのは、律法主義的・懐疑論的な思考傾向の克服ではないだろうか。
 と言っても、それは決して、自殺の緩やかな一般化、生の一可能性にまで、それを広げることではない。聖書の「あなたは殺してはならない」は、明らかにそのような可能性を拒否している。不安の極限にある人間の生命もまた、彼自身に反してでも、神によって守られている。創造者にして救済者なる神を信じることは、自分の初めと終わりが意のままにならないと認めることを意味する。

 それだけに、古代哲学のような思想的解放を求めての自殺は、信仰的には受け入れられない。むしろ、自分の場において、逃げ道のない状況のための、恵みの約束と神の誠実さに対して、神に希望をおかなければならないだろう。人間の自由は、生きるための自由であって、死ぬための自由ではないのだから。
 しかしながら、福音は、生に対する然りを語っているのであり、律法に対してではない。第六戒もまた、いかなる犠牲を払ってでも遵守すべき強制として理解されるのではなく、十戒の歴史を反映し、解放の恵みとして理解されなければ、本当ではない。具体的には、この究極的に不可能な人間の決断を可能にする事情と条件とを深く考慮し、それを決して教条的に処置しない試みにおいてだけ、正しく理解されるのである。そのときには、人が自分の行為については否認するが、隣人に対しては、恵みの約束そのものを否認しないという視点が存在してよいのだ。

 罪の赦しが存在するのであれば、そのときには、自殺に対する罪の赦しも存在しているはずである。「自殺者は赦しがたい」という固定的意見は、あたかも、自殺せざるを得ない環境と弱さ、また悲しみにあった人間の、最終的な判断が、神の審判にとって絶対であり、決定的であるかのような、頑なで不正な意図に基づいている。
 脅迫的な自殺には、無条件に反対するべきであり、御言葉は原則的には自殺に反対するが、しかし、それが現実となり、実行されたものであるときには、すべての他の罪がそうであるように、それもまた、約束された恵みのもとで起こったことである、と知らなければならないのである。現代における牧会は、この戒めから見て、極めて重要で意義深い仕事の領域を持っている。

 ふたつ目の限界は、妊娠中絶である。この問題は、キリスト教世界に長い議論の歴史を持っており、近年においては、それが刑法上の問題に、どの程度の影響を与え得るかということにまで、発展した。進行する世俗化と民主化の問題が、教会の結論まで揺るがし始めたのだ。しかもそれは、人間の真の自由をめぐっての議論になっていて、教会権威を理由として、堕胎が直ちに罰せられた時代のそれとは、方向が真逆になっているほどなのだ。
 女性解放の運動は、大きな論調圧力をもって、この問題を取り上げているが、そこで対象になっているのは、女性の権利や保護、また、教会の伝承であるだけではなく、自らを守るすべもない、無防備な生命なのであって、もしこの一線が簡単に越えられてしまうのであれば、キリスト教信仰の影響下にある様々な問題も、すべて再考を求められるのではないかと危惧されている。

 しかしこの問題では、相互に主張がイデオロギー化してしまっていることに、大きな困難さが潜んでおり、意識的に冷静になるべきだろう。神学的な倫理は、教条的に固定された不幸な背景に対して、十戒の救済的展望において、率直で責任を伴った行為を確証すべきである。それが正しく、「殺してはならない」という、御言葉に対する責任なのである。
 第六戒は、「人」を殺すなと言う。であれば、胎児は実際の人間ではなく、母の内臓の一部であるとか、女性の一部分であると主張して、胎児を人間とは認めず、人間存在へと至る前段階的なモノ、と見ることが許されるならば、それは違反とは認められない、とする考え方が、一方の根底にある。だが、人間とは、誰しも人間となりつつある存在(テルトゥリアヌス)であって、初めから完成された人間であるのは、主おひとりである。
 すなわち、その意味で、人は、新しい誕生を見守る際に、愛を傾注し、まだ生まれていない被造物に対して、神にその受容を告白すべきである。キリストさえ、その危うい過程を踏まれたのだ。人間にとって、霊的な誕生だけでなく、身体的な誕生もまた、神の恵みであるのだから。その意味で、妊娠中絶においては、人間の生成における神的権威の侵害、新しい人間の生成における憐れみの侵害が問題であり、隣人に対する生命の侵害が問題なのである。

 けれどもキリスト教の倫理は、ここでもこの指し示しを、硬直させない、開かれた地平で提示しなければならない。あらゆる十把一絡げの扱いと、律法主義とを、信仰は退けるのである。それゆえ、「堕胎は殺人なり」というスローガンは、それが単にスローガンである限り、あの「わたしの腹はわたしのもの」というそれに比べて、より憐れみ深いのだと、単純に言える訳ではないのである。
 殺人には、様々な段階や側面があるが、それは堕胎の場合も同様で、ただ妊婦の行為だけが分離され、彼女にのみ道徳的制裁が集中するならば、それは明らかに欺瞞であり、神の意図から見て、大きな問題を含んだ行為となろう。ここでは、新約聖書の意味での、主の御心の徹底化と拡大が、確証されるべきであり、隣人の内外における前提を十分に理解しつつ、性に対する正しい啓蒙と社会的で有意義な対策がなされなければならない。

 現状としては、もはや堕胎が刑法上、自動的に反映され続けることはないであろう。しかし、教会は、自らの判断を信仰において、神からするように日々促されており、下していく責任を持っている。声を失った教会は、もはや教会ではないが、中世ヨーロッパにおけるように、政治的機構や法令に自らの主張を反映させることが、直ちに主の御心であり使命であると考えるのは、あまりに図式的に過ぎ、実際の社会的必要に合っていないだろう。教会は、教会本来の方法で、自らの倫理を主張するべきである。
 妊娠中絶の問題において、教会のそれは、広がりを持った指示となるであろう。それは、優生的・医学的・法的な広がりという意味だけではなく、教会や社会で特権的な位置にない人々に対する特別な慈しみの心構えを伴う、手助けとなる規範、共同体的責任の確立を促す。この可能性は、義務と解放性に対する十戒的関心と合致して、なされていくのである。

 最後に、戦争における第六戒について、述べなければならない。これについては、本当に、第六戒のもとに議論すべき事柄なのかどうか、初めから疑義が出されておかしくないだろう。実際には、戦争は、旧約聖書の時代から、しばしば合法であり、御心でさえあるとして、率先して行われてきた歴史を持っているのだ。十戒の陰に、言わば、隠れるようにして、古代の神の民は、かなり好戦的であった。殺人に対する抗議は、私的な横暴に関することであり、戦争における政治的な殺人行為は、それと同じ意図では、公然と非難されないのである。

 しかし、すでに旧約聖書の預言者たちの使信においては、戦争に対する不愉快さと、真に求めるべき平和が、個人的にだけではなく、社会的、政治的な意味合いで、発生している。新しい契約についての最後の約束は、契約の民にとって、剣と殺し合いではなく、平和と生命であると書かれていて、事実、イエス・キリストの歴史における新しい契約は、完全にこの方向で理解されている。
 キリストの支配は、地上的政治権力の統治と圧力によるのではなく、そういった方面には無力の、愛と奉仕における憐れみの主権なのである。山上の説教は、この支配における大憲章とも言い得、その中で、まさに第六戒の解釈は、敵との和解と、終末的な平和の創立を述べているのである。

 歴史的に見れば、教会の判断の大部分は、第六戒のキリスト的解釈よりは、むしろ、古い理解をそのまま遂行しており、とりわけ、キリスト教が、ローマ帝国において国教となって以後は、そうであった。一千年の長きに渡って、この宗教の倫理学者と神学者たちは、戦争の信仰的規範化を巡って、努力を続けたのである。
 しかし、ありのままの戦争、イデオロギーや信念を健全に離れた、見たままのその惨状というものは、わたしたちの罪の世における、最も端的な裸の事実なのではないかと感じられる。そのことを、聖書は確かに教えているし、歴史上の経験が、人類に教えてもいる。教会は、この事実を無視することはできず、戦争を防止し、人間らしい仕方で交渉することを試みるべきであろう。教会史の中では、時折こうした方向の働きが、当局に反対する形であっても、行われてきたのである。

 神学的には、「正義の戦争」の教説において、この行為はしばしば積極的に肯定され、第六戒に抵触するなどとは、思ってもみられなかった。確かに、そういうものがあり得るだろうし、一切の剣なしでいられるほど、この世界の堕落の程度は易しくはないのである。だが、正義の戦争という概念は、大変危険なものとなり得るし、人の命がかかっているだけに、すぐにも狂信と化す。それであるから、戦争への参加は、キリスト者にとって、常に一定の条件の厳守のもとでのみ、支持し得るであろう。
 すなわち、戦争は、侵害された権利と生命を回復させるための、最後の手段として行われ、その目的は、真に平和でなければならず、敵との共存を目指し、道義的に支持しうる手段を用いなければならない。

 わたしたちは、カトリックにもプロテスタントにも支持されている、こうした事態のありようについて、正しい意図を認めるし、人間的な地平を十分に顧慮したこの判断を、簡単に否認することはできない。だが、この理論には疑わしい点もある。本当なら、第六戒は、単に戦争を抑制するだけではなく、社会的平和の増進をこそ求めるべきであるのに、あまりにも早く実際的な恐れや必要に目をやり、この世の現実に平伏しているように見えるからである。実際、この理論は、非常にあいまいに判断されて、政治的権力により、戦争をたやすく正当化するという誤った方向へと、人々を導いてきたし、しばしば栄光化されたのである。

 第二次世界大戦後になって初めて、エキュメニカルな社会倫理における、広範囲な変化が訪れる。この変化は、神学的な省察の脈絡において生じたのではなく、外からの圧力、近代兵器の途方もない威力によって、人類絶滅の危機感からやってきたのである。広島と長崎における核兵器の使用は、人々に戦争の意義そのものを再考せしめ、戦争に関して考えられてきた概念は、現実の破壊力を目の当たりにして、粉砕されてしまったのである。
 ここに至っては、あの正義の戦争にあえて踏み込もうとする決断も、もはや正しく通用しなくなっている。核戦争によって、回復される権利や生命などは、存在し得ないからだ。そうした戦争の後には、敵対者との共存はあり得ず、お互いにその存在からして失われていくばかりである。大量殺戮兵器に直面しては、もはや合法的な戦争の手段やその規則などはない。戦争を行うこと自体に、常にそのように膨らんでいく悪魔的な可能性がある以上、その選択はもはや、信仰的にはあり得なくなったのである。

 もっとも、キリスト教信仰においては、この結果を最初から見透かしたように、平和主義の伝統というものがある。それが、教会の主流になるような時代はなかったものの、主イエスの模範と復活を引き合いに出し、彼らは武器を持つことそれ自体を、捨てたのである。第六戒の射程の長さは、非暴力の運動としての戦争放棄を結果し、その急進的な平和への実践は、しばしば弾圧を受けながらも、根強く実施されてきたのである。
 この伝統は、その弱さを強くし、批判的・建設的に、新しくなるべきであろう。批判的には、それによる平和主義的な証言が、歴史上、政治において消極的な態度と、律法主義的な姿勢になりがちであったことを改め、建設的には、キリストの支配のもとでは、それが戦争というような大きな事柄であっても、生の特定の領域を、初めから戒めの義務から除外することは不可能であることを強調することで、その柔軟性を持たせ、新しくされるのである。

 ひとりのキリスト者にとって、「あなたは殺してはならない」という戒めは、特許的な処方としての律法ではなく、十戒の意図に完全に対応するべく、時代と地域に相当する、柔らかで強靭な参与を励ます勇気づけとして、受け止められるべきである。第六戒は、辛抱強く独創的な平和の探求と実践に対する、大小さまざまな殺人に抗する希望の御言葉として、信じる者たちの進む道を示唆するのである。

by PSALM23-6 | 2018-03-06 09:17 | 現代的十戒論 | Comments(1)
Commented by PSALM23-6 at 2018-03-06 09:24
この基本的な戒めが、あまりにも容易に越えられてしまうほどに、現代社会は、個人も国家も病んでいます。様々に謳われる人権や平和の文句は、ほとんど人間の心の中に届いていない。日々行われている、人間社会内の小さな殺人が、人々の心を、そのようにまで冷やしているのです。キリストの教会だけが、これらを癒す可能性を、主からいただいています。汝、殺すなかれ!積極的な隣人愛が、今日も求められています。
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