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キリストに従う ボンヘッファー

Ⅱ 山上の説教 真実①

 「また昔の人々に『偽りを誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果たせ』と言われていたことは、あなた方の聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。あなたがたは髪の毛一ずじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」マタイ5・33~37

 この数節の解釈は、キリスト教会では今日まで全く一定したものがない。あらゆる誓いを罪として厳格に排斥する解釈から、軽率な誓いと偽誓とに対してはよりゆるやかに拒否する解釈に至るまで、古代教会以来解釈者の解釈は互いに相違している。古代教会において最も広く認められていたのは、<誓いは、「完全な」キリスト者には禁じられるべきものではあるけれども、それに比べて弱い人たちには、一定の範囲を設けてその中では許されてもよい>という解釈であった。アウグスティヌスは中でもこの見解を代表している。彼は、誓いの評価をなすにあたって、プラトン、ピタゴラス派の人々、エピクテトス、マルクス・アウレリウスというような異教の哲学者と一致していた。そういう人たちの場合、誓いは高貴の士にはふさわしくないものと呼ばれていたのである。宗教改革の教会は、その信仰告白において、この世の官憲に要求された誓いを、もちろんイエスの言葉には何の関りもないものと見ていた。<旧約聖書の中では誓いは命じられているし、イエスご自身が法廷で誓われたし、使徒パウロはたびたび誓いに似たきまり文句を使っている>というのが、初めから盾どった主なる論拠であった。宗教改革者たちにとっては、ここでは、霊の国とこの世の国との区別が、直接的な聖書に基づく証明とならんで、決定的な意味を持っていたのである。

 誓いとは何か。それは、何かある過去のこと、現在のこと、あるいは将来のことについてわたしが口にした事柄に対する証人として、公々然と神を立てることである。すべてのことを知り給うお方である神は、不真実に対して必ず罰をもって報い給う。どうしてこの誓いは、イエスによって、罪、いやそればかりか「悪から来る」、「悪魔的」と呼ばれるのであろうか。それは、イエスにとっては完全な真実が重大な問題だからである。

 誓いは、この世の中に嘘があることの証明である。人間が嘘をつくことができないなら、誓は必要ではないであろう。だから誓いはまさに嘘に対する堤防である。しかし、まさにそこにおいて、誓いは嘘をもすすめる。というのは、誓いのみが究極的な真実を要求するところでは、同時に生活の中で嘘に存在の余地が与えられ、ある確かな生存の権利が認められているからである。旧約の律法は、誓いによって嘘をしりぞける。イエスはしかし、嘘を誓いの禁止にてしりぞけ給う。イエスの場合も旧約の場合と同じように、唯一にして全体的なものが問題であり、信仰者の生活の中にある不真実の否定が問題である。旧約聖書が嘘に対立させる誓いは、嘘自身によって捕らえられ、嘘に奉仕せしめられるところとなった。嘘はなおも誓いによって自分を守り、自分の権利を主張することができた。だから、嘘は、自分が逃げ込むところで、つまり誓いの中でイエスによって捕らえられなければならない。誓いは、嘘の避難所となってしまったために、否定されるべきである。

 誓いに対する嘘の反乱は、次のような二重のやり方で起こりえた。すなわち、嘘が誓いのもとで自分を主張するか(すなわち、偽誓であるか)それとも、誓い自身の形の中にこっそり忍び込むかであった。この場合、誓いの中にある嘘は、生きた神に訴える必要はなく、何かあるこの世的な力あるいは神的な力に訴えればそれでよかった。このように嘘が誓いの中に深く浸透して来ておれば、完全な真実はただ誓いを禁止するだけで保証することができるのである。

 あなたがたの語る言葉は、しかり、しかり、否、否であるべきである。それによって弟子の言葉がすべてのことを知り給う神に対する責任からまぬがれることは決してない。むしろ、神の名が明確に訴えられることがないということによって、まさに弟子が口にするすべての言葉は、全知なる神の明明白々たる現臨のもとに立たされるのである。神の前で語られることのないような言葉はただ一言もないのであるから、イエスの弟子たるものは誓ってはならない。弟子の語る言葉の一つ一つは真実以外の何ものであってもならないのであって。したがって誓約によるいかなる保証をも必要とするようなことはないのである。誓約は、明らかに彼の語るほかのすべての言葉を疑惑の暗闇の中に入れてしまう。だからこそ、誓約は「悪から来る」ものである。しかし、弟子はそのすべての言葉と共に光であるべきなのである。

 このようにして誓いが禁止されると、それと同時に明らかになるのは、その禁止に際して問題となっているのは真実という目標の実現であるということである。イエスの戒めは、たとえどのような法廷に立たされようと、例外を許さないということは、明白である。しかしそれと同様に言われるべきことは、こういう事態が起こる場合、すなわち、まさに真実のために誓いがなされなければならない場合、それは一般的に決断せられるべきではなくて、個々の場合に応じて決断がなされてしかるべきである。宗教改革の教会は、この世の官憲から求められる誓いはそれぞれこのような場合にあてはまるものであるというふうに考えている。このような普遍的な決断が可能かどうかは、依然として問題でなければならない。





# by PSALM23-6 | 2020-03-29 11:44 | キリストに従う | Comments(0)

若者の学び場

聖書箇所 詩編119:9

 どのようにして若者は、歩む道を清めるべきでしょうか。
 御言葉によって、それを守るより他にありません。

 現代の人々が世話をし、教育するように任せられている若者たちは、気の毒である。彼らのおかれている環境は、良くて律法だらけであり、そうでなければ、無法に囲まれている。人間が、神の言葉を示さず、示し得ないために、若者ら自身も、わたしたち大人も、高い付けを払わせられるに違いない。

 御言葉は、誠実に忠告する。
 聖書が重んじられていないような場所、神を神とも思っていないような場所には、誰も子供たちを預けておかないようにと。絶え間なく、御言葉に励まないなら、すべてが台なしになってしまうのだ。高等教育になればなるほど、御言葉を学びつつ教育がなされるべきであり、そうしてはじめて、将来を担う者たちは、この世や悪魔、自分自身の悪しき誘惑や圧力によく抗して、恵みを実践することができるであろう。

 しかしいったい、どこにそんな場所があるだろうか。キリスト教を掲げている学校が、本当にそうだというのか。
 よく点検することだ。まことにそうでない学舎の圧倒的多数にあっては、大学や高校などは、社会と自らを滅ぼす、大きな地獄の門になってしまっているのだ。

# by PSALM23-6 | 2020-03-28 10:29 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

呪いとなった

聖書箇所 ガラテヤ3:13

 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから、贖い出してくださった。

 感謝しながら、信仰をもって、人は確信するべきである。
 わたしたちは、この極めて深く甘美な慰め、その教えを受け入れるように命じられているのだ。

 それは、わたしたちにこう語る。
 「キリストは、わたしたちのために、呪いとなられたのだ。英雄になられたのではないし、天才となられたのでもない。神の怒りにまことに触れる、罪人になられたのである。主は、そのために、わたしたちと同じ肉と血をご自分に着せて、人間の罪をその肩に担われたのである。そして、わたしは、すべての人が犯した罪を、わたしの手で犯した、と言われた。そのように、律法に代表されるすべての呪いを、主はご自分のためではなく、わたしたちのために引き受けられたのである」と。

 聞いたか。これが、イエス・キリストの主要な業なのである。
 神の真の罰と怒りを身に受けた方、その方が神の子、救い主なのだ。このお方が神であられるとすれば、神がそのようなものを背負われたのだとすれば、いったい、わたしたち人間が受ける試練や苦悩とは、何なのだろうか。この方は、罪を贖った方として、信じる者相手に、祝福に満ちた、ある交換をなさる。神の子は、わたしたちの罪深い存在を引き受けられ、汚れなく豊かな神の賜物を、信じる人間にお与えになるのである。


# by PSALM23-6 | 2020-03-26 17:38 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

勝利

聖書箇所 ヨハネ16:33

 勇気を出しなさい。
 わたしはすでに、世に勝っている。

 サタンよ、お前は、自然界で猛威を振るっている。この世よ、お前の悪意は、人間世界で大手を奮っている。肉よ、お前の戦いは、被造物界全体を覆ってしまっている。

 だが、ここに勝利がある。そのような嵐と悲鳴のただ中で、主が造られた勝利の日なのだ。ここでなら、わたしたち人間は、喜び、楽しむことさえできる。そのことを、我が事として信じることのできる者、そのような魂は、何と幸せで、平安なことだろう。この世とサタン、そして肉は、このお方において、完全に打ち負かされたのだ。こうしてこの世は、絶対的な意味を失った、それだから、この世の神も君主も金も、根本的に無力である。

 むしろ、彼らは、最後の悪あがきとして、信じる者たちから体や名誉、善を奪い取ることができたとしても、不本意にも、それによって彼らは、しぶしぶ神とわたしたちに仕えて、最も良きものと永遠の命に至らせることになっている。勇気を出せ、と言われる方、すでにすべての勢力に勝利されたお方は、これらをわたしたちのために得てくださったのである。

# by PSALM23-6 | 2020-03-23 18:32 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

キリストに従う ボンヘッファー

Ⅱ山上の説教 女

 「姦淫するな」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたがたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。また「妻を出す者は離縁状を渡せ」と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」マタイ5・27~32

 イエス・キリストに対する固着は、愛のない情欲をほしいままにさせないばかりか、服従する者にそれを禁ずる。服従は自己否定であり、イエスに対する全的な固着であるから、弟子の自己本位な情欲に支配された意思が、どこかで野放し状態になることはありえないのである。そのような欲望は-----たといそれがただ瞬間的に存在したとしても-----服従からの分離を招き、全身を地獄に連れ去る。その欲望によって、人間は情欲というレンズ豆のあつもののために、自分の天国での長子の特権を売ってしまう。人間は、禁じられた情欲の代わりに自分に喜びを百倍にもして報いることのできるお方を信じない。彼は、目に見えないものに頼ることをせずに、目に見える情欲の果実をつかもうとする。こうして彼は、服従の道から落ちて、イエスから離れ去るのである。欲望の不純は不信仰である。そのことだけのためにも、欲望は退けられるべきものである。服従する者が、イエスから引き離すこの情欲からの自由に捧げることのできる捧げ物がどんなに大きくても、それは大き過ぎることはない。目はキリストに比べれば取るにたりないし、手もキリストに比べれば取るにたりない。目や手が情欲に仕えて、全身が服従の清さにあずかることを妨げるならば、イエス・キリストを犠牲にするよりも先に目や手が犠牲にされなければならない。情欲がもたらす利得は、それによってこうむる損失に比べれば全く取るにたりない。-----あなたは目や手の快楽を瞬時の間は自分のものにできても、からだを永遠に失う。汚れた欲望に仕える目は、神を見ることができない。

 <イエスはその戒めを言葉通りに考えておられただろうか、それとも比喩的な意味において考えておられたのだろうか>という問いは、今この場所でどちらかに決定しなければならないのではないだろうか。われわれの生全体がこの問いに対する答えに左右されるのではないだろうか。弟子たちの態度に直面して、答えもまた既に与えられているのではないだろうか。このように一見極めて深刻に見える決定的な問いの中で、われわれの意思は決断からの逃避を勧める。しかし、この問い自体が誤りであり悪なのである。そのような問いに対しては、答えはありえない。例えば、<もちろん、それは言葉通りに考えられていたのではない>というようなことが言われたとするなら、われわれはもはや戒めの持つ真剣さをまともに受け取らなくなってしまうであろうし、<もちろん、それは言葉通りに理解すべきなのだ>というようなことが言われたとするなら、キリスト教的実存の根本的な不条理があらわにされるだけでなく、それと共に戒めは無効にされてしまうであろう。まさにこの根本的な問いがわれわれに答えられていないということのゆえにこそ、われわれは初めて全面的にイエスの戒めに捕らえられるのである。われわれはどちらの方へものがれることができない。われわれは聴従する場所に置かれて、そして聴従しなければならないのである。イエスは、弟子たちを非人間的な極度の緊張に強制的に入れ給うのではない。また、弟子たちに見ることを禁じられるのではない。しかしイエスは、弟子の視線をご自身に向けさせ給うて、この場所にはたとい女を見ることがあっても視線は清いままであるということを知ってい給う。このようにしてイエスは、弟子たちに律法の耐えがたいくびきを負わせ給うことはないばかりか、福音を通して弟子たちに、あわれみのみ手をもって助けを送り給うのである。

 イエスは、服従する者に結婚を勧めることはされない。しかし彼は、結婚が破るべからざるものであると宣言し、またどちらか一方が不品行によって他方から分かれる時に、他方に再婚を禁ずることによって、律法に従って結婚を聖化し給う。そのような戒めによって、イエスは結婚を自己中心の悪しき情欲から解放し、それを、服従においてのみ可能であるような愛の奉仕として導かれるものであると理解しようとされる。イエスは、肉体とその自然の欲求を非難されない。しかし、その中に隠されている不信仰はしりぞけられる。こうして彼は、結婚を解消されずに、信仰によってそれを堅固にし、清め給うのである。このように、服従する者は、
結婚においても、訓練と自己否定によって、キリストに対する唯一の固着を保持しなければならない。キリストは、服従する者の結婚においても主であり給う。このようにして弟子の結婚が世間一般の結婚とは何か異なったものであるということは、決して結婚を軽視することではなくて、かえって結婚を聖化することである。
 
 結婚の破るべからざるものであることを勧めることによって、イエスはあたかも旧約の律法に矛盾しているように見える。しかし彼はみずから、モーセと律法との一致を明らかにしておられる(マタイ19・8)「心がかたくななので」イスラエル人には離縁状を出すことが許されたというのは、彼らの心をより甚だしい無拘束状態から守るためにほかならなかった。しかし、旧約の律法が意図したところは、イエスと一致している。すなわち、イエスにおいても、結婚の純潔のみが、神に対する信仰においてなされる結婚が、問題になっているのである。この純潔、すなわち貞潔はしかも、イエスとの交わりにおいて、イエスに対する服従において保たれるものである。
 イエスにとって問題なのは完全な純潔、すなわち弟子たちの貞潔であるから、神のために結婚を完全に断念することもまた賞賛されるべきであると、イエスは言わねばならない。イエスは結婚もしくは独身を一つの綱領にされることはなく、かえって弟子たちを、淫行すなわち結婚生活の中や外における姦淫から解放し給う。この姦淫は、自分自身の体に対しておかす罪だけでなく、キリストご自身のからだに対しておかす罪なのである(Ⅰコリント6・13~15)。弟子のからだもまたキリストのものであり、服従の一部である。われわれのからだはキリストのからだの枝なのである。神の子イエスが人間のからだを担い給うたがゆえに、われわれはイエスのからだとの交わりを持つがゆえに、姦淫はイエスご自身のからだに対する罪である。
 イエスのからだは十字架につけられた。使徒は、キリストに属する者たちのことを、<自分の肉を、その情欲と共に十字架につけてしまった>と言っている(ガラテヤ5・24)。このように、この旧約の律法の成就も、十字架につけられ、苦しみをなめ給うたイエス・キリストのからだにおいて、最も真実なものとなるのである。弟子たちにとっては、彼らのために与えられているこのからだをみつめ、またこのからだとの交わりを持つことが、イエスの命じ給う貞潔への力である。




# by PSALM23-6 | 2020-03-22 09:48 | キリストに従う | Comments(0)