真理のためならばできる

聖書箇所 Ⅱコリント13:8

 わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

 「わたしは真理である」。主キリストは、そう言われている。
 これは、あまりにもすばらしい事実であって、パウロもここで、そのことを下地として、信じる者たちにどこまでも真理に寄り添うよう、勧めをしているのである。しかしこの事実は、人間の心にはあまりにも強く、確固としたものであるため、その広さと深さを十分に把握することができず、したがって、この世では当然のように、この「真理」をめぐって激しい対立と戦いが起こるのだ。

 すなわち、主を信じる者が、神の真理を軽々しくは扱わず、場合によっては人間自身や社会以上の事柄、それらが由来するところの土台がまさに取り上げられている、と理解する一方で、他方、不信仰者や真理を勝手に利用しようとしている者たちは、真理を何もそこまで厳密に考え、人間や社会関係を壊すほどに重く思わなくてもよいではないか、所詮は心の中のことだから、精々お互いの利益のために便利に使おうではないか、とするのである。

 逆である。
 そのように判断し、生きてきたからこそ、真理である方を自分の方便やアクセサリーにしてきたからこそ、わたしたち人間は神を離れ、救い主を殺して、平然としていたのだ。しかもその実態は、罪から逃れられず、同じ悩みや苦しみを繰り返しては、もがきあえいで、ついに孤独に死んできたのである。キリストの真理や神の言葉が失われるとき、それと引き換えに得たどのような人間の一致や平和も、偽りのものにすぎず、見せかけで力を持たないため、実際には何もすることはできないし、誰も救いはしないのだ。

 主にある真理がなくなれば、すべてのものを失う。
 ここでは、あなたやわたしの愛や損得が問題ではない。キリストという真理、この場所では、地上で互いが敵であろうと味方であろうと、御言葉にすべてのものが従わなければならないのである。永遠の生命と一致が与えられるために、主の真理はそこにある、わたしたち人間の、つまらない、一時的な、欠けの多い統一のためにあるのではない!

 まことに御言葉が存在し、信じられるところでは、いかなるものも神の支配を受ける。それがない場合には、いかなる平和も協力も友情も存在しないのである。その愛や必要、助けが、真理や御言葉、信仰を破壊するものであるならば、直ちに引っ込めるがよい。聖書は、御言葉を「標語」にした、人間の都合のよい思いや団結が人間を救い、生かすと主張したことは一度もない、すべて真に良きものをもたらすのは神の御言葉、真理であるキリストおひとりなのである。

# by PSALM23-6 | 2026-04-16 10:01 | 新・一日一話 | Comments(3)

取りつかれていない

聖書箇所 ヨハネ8:48、49

 ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない」。

 ここでは、信仰と不信仰、神へのまことの愛と偽りの愛、神の栄光と人間の関心とが、これ以上はないという仕方で、イエス・キリストという神と人を代表される方を前に、結論的に和解不可能な現実となってしまっている。事がここに至るまでに、主は何度わたしたち罪人を忍耐され、その無思慮な辱めを忍び、人間とその宗教の愚鈍や不正を耐えてこられたことだろうか。

 しかしここで、とうとう勘違いした自称・宗教人たちは、踏み込んではいけない場所まで立ち入ったのである。履き物を脱げ!そこは聖なるところである。キリストは、神である御父の尊厳と栄光とを弁護し、繰り返しご自身を証しされたのであったが、彼らは無遠慮に、正面から、神を汚し、キリストを見下げて、永遠の憐れみのご意志を嘲笑い、聖霊に対して逆恨みを始めたのである。

 何が起こるだろうか。
 主の忍苦は、ここで切り替わる。神のまことがこの至聖所、真理中の真理である父と御子の交わりにおいて、弄ばれることは許されない。キリストは、神の御言葉が汚されないために立ち上がり、整然と、明瞭に、この赦されざる罪を犯した人間たちに対して、天の判決を宣言なさったのだ。救いを遊びにし、キリストを気違いとし、神を悪霊や偶像とするか。今、あなたがたが悪魔の子であることがはっきりした。あなたがたは、自分がそこに根差し、変わりようもなく属していることを、あのようにして証明したのであると。

 神知らぬ人が、わたしたちキリスト者の欠点や至らなさを論い、攻撃するのはいい。
 そこには、正しい点もあるのだから。
 しかし、彼らが福音を、主キリストを、三位一体の御交わりを脅かすときには、もはや沈黙してはいない。そのときには、御子に倣い、わたしたちはこう言う、「わたしは、わたしを救われた父を敬っている。それゆえ、あなたはわたしを敬わない。あなたとわたしとは、永遠の親が異なるからだ。父は、父の誉れだけでなく、その子らの誉れもお求めである。父を愛する者は、御子をも愛する。そして御子を愛する者は、同じく御子を愛する者たちを愛するのだ」と。

 本当の愛は、このように神の生命の循環に参与する。
 だが、永遠の命の流れの中にない者は、御言葉や福音に接すると、はじめは分かったような態度でいても、最後にはあのように、汚れた思いから神の栄光を直接的に馬鹿にし、攻撃し始めるのである。

# by PSALM23-6 | 2026-04-14 16:48 | 新・一日一話 | Comments(0)

強くなりなさい

聖書箇所 エフェソ6:10

 最後に言う。
 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

 パウロはまるで、臨戦態勢を整え、士気の高い兵士たちに訓示する将軍のように、神を畏れつつ、このように言う。これは牧師の言葉だろうか、これが信仰の祭司や教師の口にする内容なのだろうか。そうだ。そうなのだ、こうした事柄を宣言し勇気づける、真の説教者が、むしろいなさすぎるのである。まことの信仰の担い手は、その兄弟姉妹を同じ天の軍勢のひとりひとりだと見なし、世の偽りなき現実を正しく見据えて、将軍のように言うのだ、各兵士がしっかりと主に頼み、救いの確信に立ち、神の偉大な力によって、大胆に戦う用意をするようにと。

 信仰者にとって、この世は温かな温泉ではないし、整えられた安楽椅子でもない。人の子には、枕するところもなかった。そこは、神の子が裏切られて殺された場所、十字架の上で嘲られ、捨てられた場所なのである。わたしたちの平和は、このキリストにだけある平和なのだ。救い主にしっかりと結びついて、永遠に意味のある真実な人生を歩もうと決心した者は、いつも信仰の武具を神によって身につけた、戦士でなければならないのである。

 真にこの信仰を持つ者は、誰ひとりとして、ただ安穏と存在しているのではない。彼の人格は、いつも塩味が効いている。掃き溜めの中の鶴のようだ。その誰ひとりとして、不信仰者たちの攻撃、サタンの計略から完全に逃れ得る者はない。彼らはどんな時、どんな場所にいても、戦場にいる戦士のごとく、自分の信仰を守り、虚偽や不信頼に対して応戦しているのだ。恵みなのか努力なのか、憐れみなのか法なのか、勇気なのか臆病なのか。キリストにある者は、常に御言葉によって判断する。

 信仰の歴史を紐解いてみなさい。パウロを通じ、ペテロやヨハネを通して、世々の信仰にある説教者たちは、このようにキリストの兵士を集め、励まし、警告したものだ。あなたがたは、キリストの部隊に属し、神の軍旗のもとにある。あなたがたは、信仰の敵、神に対する反抗者に対して警戒し、敵の軍勢のいかなる状態なのかを、御言葉により、よく把握しなければならない。敵は決して、あなたがたから遠く離れてはいないと。

 わたしたちは、天使たちと共に、主キリストに属している。万軍の主は、悪霊やサタンを打つ、まことの勝利者であられる。本当に戦われるのは主ご自身であられるから、悪魔たちやその崇拝者、金や力を頼みとする愚者たちは、最終的には投げ捨てられる。神の言葉は、永遠にとどまるのである。この困難を極める時代、信仰者は、誘惑を受け、敵と戦うことに疲れることもあろう。御言葉を心から引き抜かれて、幾人か倒れることがあるかもしれない。だが、主の御言葉が倒れることはないのである。君よ、恵みによって強くあれ!

# by PSALM23-6 | 2026-04-12 13:11 | 新・一日一話 | Comments(0)

聖徒を助け、もてなせ

聖書箇所 ローマ12:13

 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

 不思議なものである。わたしたちは、日々に必要なものをお与えくださるようにと、神に祈る。それは、父なる神だけに可能な憐れみであり、信じる者はそれぞれに、それがなければ一日として生きられない者、恵みに頼ってのみ生きられる者として、それをするようにと主から勧められている。しかしパウロはここで、わたしたちが互いに聖徒として、特に孤独と貧しさ、旅路と当てのなさにある者に対して、自分にあるものを分け与えるように、と言うのである。

 だが注意せよ、ここで使徒が指しているのは、まことの聖徒のことである。すなわち、自分たちの属している組織や地位、その待遇に満足して、互いに相手を褒めつつ認め合う、ぬるま湯の平和の中に浸かり続ける者たちのことではなく、福音と罪の現実に生きるために、自ら旅に出、この世の貧しさと主にあることの孤独に生き、旅人のようにさまよいつつも、常にキリストを愛して、信仰に生きている者たちのことなのだ。

 彼らこそは、まさに厳しく必要に迫られている。そこは、伝道と宣教、恵みと罪との戦場だからだ。その様相を表現すれば、彼らはとても聖徒のようには見えず、寄る辺のない、飢えた、裸の、投獄され、殺されようとしている人間である。彼らは、人間の助け、神の導きを必要としており、しかも自分ではどうすることもできず、ただ耐えている。世は、この人たちがこのようであるのを当然の報いであるとし、邪悪なならず者のように見ているだけである。

 見よ。
 彼らこそ、キリスト者である。キリストの似姿をもって、キリストの欠けたところ(!)を補う者たちだ。主は裁きの日に彼らを連れ出し、「この者たちにしたことが、わたしにしたことである。彼らにしなかったことは、わたしにしなかったということだ」と言われる。そのとき、あらゆる偶像崇拝者、金に頼む者、教会や牧師を崇める者たちは、神の前でその恥ずかしさと恐ろしさに打たれ、あまりの不面目に顔を上げることもできなくなる。

 友よ。
 彼らをこそ、もてなしなさい。神の言葉をもって励まし、心身の世話をしてあげなさい。彼らこそは、あなたと共に、あなたに代わって、無常の荒野に神の道を作り、自らこれを広げ、十字架の光を掲げて進む者たちなのだ。

# by PSALM23-6 | 2026-04-09 19:05 | 新・一日一話 | Comments(0)

神は分け隔てしない

聖書箇所 ローマ2:11

 神は人を分け隔てなさいません。

 神よりの光栄については、すべての人は等しく造られており、そこに分け隔てはなく、したがって、誰かが誰かに勝っているということはない。神は誰ひとり、軽蔑され、非難され、捨てられることをお望みではないのである。わたしたち救われている者は、「すべての人に」キリストの福音を教え、伝えなければならない。すなわち、神による救いの必要という絶対的な点からして、この地上で最も偉く、賢く、優れた人物も、最も卑しく、愚かで、蔑まれている人に少しも先んじてはいないのだ。

 人間は主の御前に等しく、悲しみや愛、誉れや権利に対して、ひとつの固定化されたグループをなしており、誰かひとりだけ抜きん出ており、選び出されているということはない。そこから這い上る道があるとすれば、それは「キリスト信仰」のみであって、どのような民族、国民であろうと、どの階級に属し、人の目にどれほど不公平に映ろうとも、それ以外に救いはないということについて、実は変わりはないのである。

 確かに、地上の生活には、不平等や多様性がある。それぞれに種類があり、それ毎の秩序があって、一度にまとめることなどできそうにない。しかし、神の前でのあの絶対的な平等性、「罪性」の前には、「救いの必要性」、「信仰の唯一性」の前には、あの環境や所属に応じた業の、どのような完全さや偉大さをもってしても、それは人間の救済とは、一切関係がないのだ。キリストの国では、すべてはこの観点から見られ、人は等しい者、キリストなしには惨めに滅ぶ者である。

 聞け。
 この人があれをした、あの人がこれをした、そのようなことではなく、「信じる者は救われる」。喜べ、喜ばしいことではないか、ここでは、あなたがユダヤ人であれ、異邦人であれ、主人であれ、僕であれ、乙女であれ、夫であれ、ただひとつの信仰によって、すべてを与えられるのである。主は言われる、永遠の誠実を込めて。「あなたが信じるならば」と!
 キリストを信じるならば、あなたは神の国におり、救われた人であり、主の血により、罪と死から贖われている。

# by PSALM23-6 | 2026-04-06 09:11 | 新・一日一話 | Comments(0)