真正なる神人

聖書箇所 ローマ9:5

 肉によれば、キリストも先祖たちから出られた。
 キリストは、万物の上におられる、永遠にほめ
 たたえられる神である。

 罪や死、呪いを打ち砕かれるのは、どなたであるか。神の義と命、祝福とをもたらすのは、誰であるか。それは、どの聖人でもないし、どの天使、どの牧師、どの修道士でもないのである。ましてや、海や山や木、その霊たちなどではない。御言葉と聖書は、それらの行いを、ひとつ残らず主キリストだけに帰している。神と懇ろに語り、どこで、どのように行うかがきちんと定められるべき、これらのことを、ただおひとり実施されるこの方は、まさにまことの神ご自身であることは、確かである。

 その実行のため、主は、わたしたちと同じ肉を取られた。すなわち、そのようにして、わたしたち人間の罪と悲惨とをすべて引き受けられたが、しかも、わたしたちと同じ人間でありつつ、同じ確実さをもって、まことの神でいましたもうたから、主ご自身は罪や悲惨そのものに染まらず、かえってこれらを打ち負かし、わたしたちの罪と死の死のために、自ら死なれた神なのである。
 見よ、この方こそ、人間の救いのための、真正なる「神人」であられます!ゆえに、このお方に身を委ねることができさえすれば、すべての罪と死、地獄、あらゆる苦悩と心痛とは、このお方の苦しみと忍耐の中で打ち砕かれる。わたしたち信じる者は、神のくださった平和の内に、主の御業のすばらしさ、見事さ、完全さとを、歓喜と感謝をもって、振り返ることができるのである。

# by PSALM23-6 | 2021-08-01 13:36 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

律法よ、洗礼を受けよ

聖書箇所 ヨハネ1:17

 律法は、モーセを通して与えられ、
 恵みとまことは、
 イエス・キリストを通してきたのである。

 恵みとまことを通さない、死に至る律法というものがある。モーセは、そんなことは意図しなかったが、この世の人間と不信仰とは、いつもそんなふうにしか、神の言葉を解さない。そして、そういう意味での律法は、あなたの弱さや不安、苛まれた良心に向かって、「これは、あなたに命じられている。だが、あなたはそれを、行っていないではないか。だから、あなたは咎められるべきだし、キリストを口にするべきではなかろう」と言うことだろう。
 しかし、そのような、福音に対する悪意ある挑戦や、失望へといざなう力があるときにこそ、信仰が奮起する絶好の機会である。あなたはそこで、キリストを信じる信仰を高く掲げて、その主張に突進し、律法の間近に迫って、なお平然としていなさい。「神の律法よ。あなたは、随分と悪用されているようだ。福音によって、洗礼を受けなさい。神の約束に偽りはなく、その恵みは終わることがないのである」と。

 それゆえに、敵意に満ちた律法的精神が、あなたが罪人であり、天国へ行く資格などないと訴えるならば、それはまったく、その通りであると肯定するがよいのだ。けれども、それが実際に、判決として神によって実行され、あなたが罰せられ、地獄へ行くと続けるならば、あなたはそれを決して認めないで、強く信仰を守り、こう宣言するがよい。
 「律法によれば、わたしもあなたも、確かに、主によって罰せられ、見捨てられる他ない、哀れな罪人である。だが、わたしには神の福音がある。福音を通さない、単なる律法に対しては、わたしは神に控訴できる。神は、律法の上なる司として、恵みの御言葉をお与えになられたのだ。それがキリストの福音であって、罪の赦しと義、命とを与えてくださるのである」と。

# by PSALM23-6 | 2021-07-30 19:54 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

わたしは敵意を置く

聖書箇所 創世記3:15

 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。

 この御言葉は、本来、悪霊と不信仰の頭=サタンの裁きに、関わるものである。ここには、すべての信仰者、義人にとっての、真に安心できる慰めが含まれているのだ。悪魔に対しては、神の子ご自身が立ち向かわれる。主が守り、戦ってくださるので、信仰者の群れは、安全である。しかしここには、激しい敵意を挟んで、互いに相手を砕き合う、闘争が置かれている。それは、神が置かれたものなのだ。
 サタンには、まだ、女の子孫に対する深い残虐心と憎悪、敵意が残り、決してそれらを捨てていない。キリストが揺りかごで眠っておられたとき、悪魔は、ヘロデによって主を追跡したので、神の子はエジプトに下り、異教徒の間でお過ごしになった。その後、サタンはゲツセマネの園で、キリストをユダヤ人に引き渡した。そして、人間たちの不信仰と罪深さを煽り、主を十字架の死にまでも至らせたのだ。

 「お前」=悪魔は、そのようにも強い悪意を、神の子とその子孫たる信仰者たちに対して、持ち続けている。しかしサタンは、今、キリストが神の右に座し、彼の攻撃をすべて免れているのを見て、哀れな地上の者たちに向かって、あらゆる怒りをぶつけている。キリストを信じる者たちは、この攻撃に対して、主がなされたのと同じ道、争い、戦う以外の道を知らない。
 なぜ、信仰と不信仰の間、恵みと自力の間、義認と自認の間には、かくも言葉が通じず、理解し合えず、考えが異なり、戦いと苦しみが絶えないのか。どうして、一方が「はい」と言えば、他方は「いいえ」で、こちらが「好む」と言えば、あちらは「嫌だ」と言うのか。そのゆえんは、原初の物語にある、この御言葉にまで遡るのだ。不思議に思うな、無闇に悲しむな。これは、聖なる戦いであって、キリストか、そうでない者かの争いなのである。悪魔は休むことなく、かかとに噛みつく。自分の頭を砕く者たちの平和を、かき乱す。だが、サタンの頭を砕く方、わたしたちの主は、悪魔をお赦しにはならない。

 キリスト者は、漠然とした平和主義者ではない。もし、あなたが賢く振る舞おうとし、悪魔や不信仰の側にも、言い分とそれなりの正義がある、などと考えているとしたら、間もなく、どっちつかずで、生ぬるい人間の報いを受けて、主はあなたを罰するであろうし、悪魔はあなたを引く裂くだろう。もう一度、言おう。この敵意は、神が置かれたものなのだ。
 それゆえに、キリストとベリアルを和解させようなどという、分不相応なことは、絶対にしないように!互いの敵意は、あまりにも激しく、妥協することは不可能なのだ。最後には、一方は滅び、一方は留まる。一方が生き、一方は死するのである。それ以外ではない。義と神なき者を一致させようというのは、この世の最も愚かな試みのひとつなのである。

# by PSALM23-6 | 2021-07-28 19:37 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

預言者も皆

聖書箇所 使徒言行録10:43

 預言者も皆、このイエスについて、証ししている。

 聖書を正しく、有益に読みたい者は、キリストをそこに求めるように、心がけなさい。律法、歴史、預言、詩歌、箴言、そのすべてに、である。そうすれば、その人は確実に、魂の解放と永遠の命を見出すであろう。このように言うのは、御言葉を違ったふうに読み、解釈し、宣伝する人間は、決して珍しくなく、むしろ、いつの時代にも、広く見られたからである。
 すなわち、ほとんどの人々は、聖書や説教を前にしても、そのねじ曲がった心と耳のため、キリストがすべての人のために、天から降られて人となり、苦難を受け、死んで葬られ、復活して天に昇られたこと、そして、信じる者が、この主によって、神との和解と罪の赦し、恵み、義、永遠の命を得ることを、そこに読み取らないのである。

 こうして、不信仰な人間は、聖書を無視するか、せいぜい、御言葉の知識や知恵を溜め込めるだけ溜め込んで、なお、まったく役に立たないし、ましてや、救いには至らない。これを歴史書や古代文学として受け取り、その研究によって学識を得、それについて大学等で教えることができるかもしれないが、それは、その人間自身にとって、災いにはなっても、何の益にもなっていないのである。
 キリストを見出さない者、彼は、神も永遠の命も、ついに見出さない。いや、避けがたく、苦渋に満ちた悲しみの内に、死と出会うのである。主なる神は、すでに決定しておられるのだ。「わたしたちが救われるべき名は、イエスの名による他には、人には与えられていない」ということを!キリストを見出す者は、キリストがまず自分を見出してくださったことを、知っている人間なのである。

# by PSALM23-6 | 2021-07-26 18:30 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)

右側にいる人たち

聖書箇所 マタイ25:34、35

 そこで、王は右側にいる人たちに言う。
 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、世の初めから、お前たちのために用意されている国を、受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに、食べさせてくれたからだ」。

 あなたは、キリストが孤独で、無視され、飢え渇き、おひとりで倒れているときに、お助けしただろうか。心を込めて介抱し、この方の側に立っていただろうか。常に、御言葉と真理、誠実と信仰の側に立つ!それが、王なる方の右側にいる、ということである。その場合、あなたはキリストの御救いのゆえに、憐れみを持ち、親切で、耐え忍ぶことのできる人々と、共にいるのである。彼らは皆、数は少なくとも、主の右側の人々である。あなたは喜んで、最後の審判を待つことができるし、神の裁きを恐れる必要はない。
 主は、すでにあなたを引き出して、ご自身の右側にいる人たちのところへ、並べられているのだ。真のキリスト者は、世の初めから用意されているその御国を、心待ちにしているし、するべきである。御国が来ますように、御心が行われますように、悪い者から救ってくださいという祈りは、彼らにとっては形式ではなく、まったく真剣な、第一の願いであり続けたのだ。その彼らが今、主の「祝福された者たち、父の御国に入りなさい」との恵まれた御言葉を聞くのである。

 信仰を自称していながら、この悪い世にどこまでも関心を持ち、そこに居続けたいと願い、その祈ることが、この世での安寧ばかりという、不思議で理解不能な出来事が、教会内外で広く見られる。唾棄すべきことだ。わたしたちがキリスト者であるのは、この審判のためであり、まさにこの最終的な希望のゆえに、どんな理不尽も、どんな不名誉も耐え忍んできたのである。わたしたちが、福音を信じて喜ぶことを妨げてきた不信仰や悪魔、わたしたち自身の肉に対し、また、この世の圧力と無視、敵意に対して、いつも戦ってきたのだ。
 王の右にある者たちは、この点で、迷うことはない。この世と悪霊どもが、主とその友に対して、繰り返し行ってきた悪と、それに関連して、地上に多く起こる災害と不幸とを耳にしなければならないので、彼らはこの命に疲れ果て、うんざりしていて、神に向かって叫ばざるを得ないからである。「来てください、主よ、わたしたちのもとへおいでになって、わたしたちを完全にお救いください」と!

# by PSALM23-6 | 2021-07-25 07:19 | 日毎のキリスト教道しるべ | Comments(0)