力ずくの救い

聖書箇所 創世記19:1~36

 二人の御使いが、夕方、ソドムに着いたとき、ロトは、ソドムの門の所に座っていた。ロトは、彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ、僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください・・・」。彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちは、この広場で夜を過ごします」。
 しかし、ロトが、ぜひにと勧めたので、彼らは、ロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。・・・彼らが、まだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りも、こぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。
 「今夜、お前のところへ来た連中は、どこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」。ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしには、まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください・・・」。
 男たちは、口々に言った。「そこをどけ。・・・さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる」。そして、ロトに詰め寄って、体を押しつけ、戸を破ろうとした。二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて、戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。
 二人の客は、ロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れて、ここから逃げなさい。実は、わたしたちは、この町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが、主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです」。
 ロトは、嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主が、この町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは、冗談だと思った。夜が明けるころ、御使いたちは、ロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて、行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって、滅ぼされてしまう」。
 ロトは、ためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて、町の外へ避難するようにされた。
 彼らが、ロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」。・・・
 太陽が地上に昇ったとき、ロトは、ツォアルに着いた。主は、ソドムとゴモラの上に、天から、主のもとから、硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は、後ろを振り向いたので、塩の柱になった。・・・

1.ソドムの惨状
 ここでは、アブラハムの神が、大きな御業をなさっています。しかしそれは、こともあろうに、神様による、町の破壊であったのです。主は以前、「わたしは、その10人の正しい者のゆえに、町を滅ぼさない」と言われていました。しかし、そこには、10人さえも、主を信じる正しい人は、いなかったのです。
 まことに、町を破壊される方は、アブラハムの神であります。その方は、その独り子を十字架において死なせる神、イエス・キリストの父なる神であられます。そして、そのお方は、この地に埋もれていた、正しい魂を捜し出して、それを救われるお方なのです。「神は、アブラハムを覚えて、滅びの中から、ロトを救い出された」。

 もし、この町の滅亡に関して、わたしたちが、神様に怒りを感じるならば、それは、的外れです。その怒りの矛先は、むしろ、この町に住んでいた人々に対して、向けられるべきです。お読みしましたところでも、わたしたちが現在、同性愛と呼んでいるものが、出てきているのです。「今夜、お前のところにきた者は、どこにいる。連れて来い。なぶりものにしてやるから」!
 聖書は、こうした人間の実態について、ありのままに語ります。本質的には、今も昔も変わりない、人間の悲しい、罪深い性質、悔い改めることのない頑なさ、そのいびつな愛憎については、神はついに、罰を与えられるのです。この方、アブラハムの神には、わたしたち人間は、本気で向かわなくてはなりません。神は、侮られるような方ではない。自分流の抗弁や言い分など、通用するような相手ではないのです。

2.救われるもろい義人
 けれども、そのような人間世界のただれの中にあって、神様が、アブラハムを覚えられたこと、ロトを救い出されたことは、神様の寛容であり、神様の忍耐であり、神様の慈愛であると思われます。
 この日、昼には、アブラハムが、町のためにとりなしをし、「10人の正しい者によって、その町でも救われる」という約束を得た日、その間に、時は夕暮れになっていました。ふたりの御使いが、ソドムの町に近づいていきます。アブラハムの甥であるロトは、町の門のところに座っておりました。
 ロトは、アブラハムと別れてから、ソドムの住民となり、住み着いておりました。彼は、ソドムの人々と気安く付き合っているようです。しかし、ロトは、何から何まで、すっかりソドムに染まってしまったというのではありません。
 ペテロの第二の手紙には、ロトの心は、「ソドムの人々の間で、昼も夜も苦しんだ」と記されています。彼らの間にあって、ロトは決して、うまくいってはいなかったのです。
 そして、信仰にある人らしく、彼は、当てのない旅人をもてなす心を、捨てておりませんでした。そのように、ロトという人には、両面がありました。神の国にも、ソドムの町にも、どちらにもかかわっている人物。それが、ロトでありました。彼は言わば、もろいクリスチャンであったのです。
 そして、神様は今、このいかにももろいクリスチャンを、救おうとなさるのです。神の使いたちは、青年の姿をとり、ソドムにある多くの家々の中から、ひとつの家を選んで、そこに泊まることにしたのです。

 しかし、御使いたちが、ロトの家の敷居をまたいだ瞬間、ソドムの町は、その惨めな本性を現しました。若い者も老人も、町中のものがこぞって、ロトの家に押しかけます。罪深い欲情が燃え上がり、彼らは、ふたりの若者に、手をかけようというのです。
 ここでロトは、男らしい態度を示しています。ロトは、自分の命や、自分の娘たちの貞操をかけてまで、客である御使いたちの身を、守ろうとするのです。・・・これは、正しいことでしょうか。いや、もろいクリスチャンというものは、―わたしたちも、しばしばそうですが―罪を罪で阻止しようとするような、重大な誤りを犯すのです。
 ロトは、そうした形で、自分の客人を救おうと試みます。ところが、突然、彼は、自分と客の立場が逆転したことを知ります。この客は、アブラハムの神の使いなのであり、この場所から、本当に救われなければならないのは、ロトのほうであるのです。
 ふたりの神の使いは、ロトを救い出します。彼らは、過信と罪に酔いしれた暴徒たちの目を打って、盲目にしてしまいます。御使いたちによる、この夜の訪問は、ソドムに対して最後に差し伸べられた、神の御手であったのです。けれども、この最後のチャンスは、ソドムの人々の振る舞いによって、台無しになりました。彼らは、悔い改めません。神の時が来たのです。今や、主による裁きの執行が、開始されます。そして、同時に、ロトの家族に対する神様の救いも、始められるのです。

3.力ずくの救い
 御使いは、ロトに向かい、今やソドムに対する裁きのときが到来したことを打ち明け、彼とその妻、ふたりの娘たちは救われるのであることも、伝えます。
 「その町に、10人の正しい者がいれば、わたしは赦そう」。・・・神は、そのようにおっしゃってくださいました。しかし、それは、ひとりもいなかったのです。そのほかにいるとすれば、ロトとその家族のみ、もろいクリスチャンだけです。
 神様は、ロトに問題があるにもかかわらず、これをお救いになります。それに加えて、彼の奥さんとその娘たちも、救ってくださるのです。神様の憐れみは、そのようにも大きく、広く、高いのです。
 そして、神様は、娘たちの配偶者たちをも、この救いの計画の中に加えてくださいます。「ほかに、あなたの身内がここにおりますか。あなたの婿、息子、娘、および、この町にいるあなたの身内の者を、みなここから連れ出しなさい」。それほど徹底して、「神は、アブラハムを覚えて、その滅びの中から、ロトを救い出された」のです。

 しかし、ロトが事態の深刻なことを説明して、神の裁きの告知を伝えたのに、娘の婿たちは、これを笑い飛ばしたのです。神様が、救いの約束をお告げになるときに、しばしば起こってくるあの笑い、あの不信仰が、ここでも見られます。
 彼らには、義理の父の言葉は、冗談に聞こえました。その笑い、その不信頼は、神の憐れみの言葉に対するものでありましたから、彼らの滅びを招きました。
 けれども、ここで、もっと理解しがたいことが起こります。ロト自身が、すぐに逃げるべきかどうかを迷っているのです。御使いたちは、繰り返して、直ちに逃げ去るように、警告を発します。ロトが町にいる限り、裁きを始めることができないのです。
 神の使いたちは、急いで逃げるように、ロトをせきたてる必要がありました。「逃れて、自分の命を救いなさい。後ろを振り返ってはならない。山に逃れなさい。そうしなければ、あなたも滅びます」。
 しかし、こう言われてなお、ロトには、自分を救うだけの信仰の勇気がありません。そのため、御使いは、ロトの手首をつかみ、力ずくで、彼を町から連れ出さなければなりませんでした。・・・これは、信じられないようなことではないでしょうか。本当に。

 いやいやながら、神によって救われる。けれどもそのことは、ロトたちだけのことでしょうか。わたしたちにとりましても、救いを求め、それを手にするということは、しばしば不愉快な、気に入らないことではないでしょうか。
 救い主を十字架につけたのは、自分の罪であるということの承認は、生まれながらの人間には、受け入れがたいことでしょう。しかし、そのようにも、神の子が力ずくで、救いをなしてくださったからこそ、わたしたち罪人の救いはあるのです。
 ロトを笑う勇気は、わたしたちにはありません。わたしたちもまた、ロトのような、もろいクリスチャンにすぎないのですから、あのような神様の力強い救いに、素直に従いたいと思います。
 十字架と復活という、正視するにたえないその光景は、嫌がる人間を、恵みに引き合わせようとなさる、神様の力強さ、神様の真剣さ、そのものではないでしょうか。十字架には、復活には、この世の罪深さから抜け出し、神様のもとへ駆け寄ることのできるそのような祝福が、込められているのです。
by psalm23-6 | 2008-07-20 17:05 | 聖書からの説教 | Comments(1)
Commented by psalm23-6 at 2008-07-20 17:21
恵みのみ。それは、物語として言い換えれば、ロトの物語だと思われます。力ずくで、わたしたちをその御手の中に、買い戻してくださった神。その手には、十字架の釘の跡が、はっきりと残っていたのです。それを知ったときこそ、わたしたちはトマスと共に、叫ぶのです。「我が主、我が神よ」!と。
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