主に重荷を

聖書箇所 詩編55:23(22)

 あなたの重荷を、主にゆだねよ。
 主は、あなたを支えてくださる。
 主は、従う者を支え、とこしえに、動揺しないように
 計らってくださる。

1.主にゆだねよ
 「あなたの重荷を、主にゆだねよ」。この御言葉は、「あなたの心にのしかかっていることを、あなたのものではなく、主のものにしなさい」ということです。主が、あなたの重荷を、主ご自身の仕方で理解し、扱われます。
 「その通りにしておきなさい、心配事を主の御手におき、主が、ご自身の目標に導いていかれるままにしておきなさい」。これが、今回の御言葉の意味であります。

 今日、ほとんどすべての人間が、多くの重荷を持っています。その肩にのしかかっているものを、床に投げ捨てて、踏みつけてしまいたいと思うものを持っています。今後、どうなるのだろうかという心配、今おかれている状態についての訴え、責任ある人間に対する正当な怒り、聞いてほしい、満たされたいと思う、要求の数々があるのです。
 しかし・・・。わたしたちは、このような人間の叫びを、それだけを、これ以上聞いていても、何の解決にもならないということを、知らないでしょうか。愚痴っぽく生きていても、悶々としていたり、心を塞いでみても、自分のためにならないし、人のためにもならない、ましてや、神様のためにはならないということを。
 そして、そのように、それぞれに重荷を負って生きているわたしたちが、まだ十分に知らないこと、知る必要があることが、「あなたの重荷を、主にゆだねよ」ということであります。

 実に、このためにこそ、わたしたちには、主が、イエス・キリストがおられます。わたしたちの重荷を、キリストに背負っていただくために。わたしたちが、それを彼に負わせ、それを背負わせて目標まで導いていただく、そのことにおいて、イエス様は、主と呼ばれるのです。
 そうです、イエス・キリストは、そのように「重荷を持つ、すべての者の主」であられます。わたしたちが、自分の荷を彼にゆだねてよい、ということにおいて、主イエスは、わたしたちから崇められ、賛美されることを、望まれるのです。
 なんと不思議な主でしょうか。自分に耐えられないようなことを、人に負わせるとは、普通は、とんでもないことです。が、主イエスに対して、それをするということは、信仰であり、わたしたちが感謝するべきことなのだ、というのです。
 「わたしたちの重荷を、主にゆだねる」。これこそ、キリスト教であります。信仰のすべてを覆っているものです。そして、そのことが許されるのは、わたしたちに対する神様の憐れみのゆえであり、わたしたちひとりひとりに示そうとなさる、神様の恵みのゆえなのです。
 主はここで、そのことをするようにと、わたしたちに求めておられます。神は、わたしたちがそれをするまで、待っておられるのです。

2.重荷を負い、支えられる主
 ところで、この主の上には、すでに、非常に多くの重荷が置かれています。このお方が、ゴルゴタの丘に赴かれたとき、すべての時代の、すべての人間の、すべての重荷が、彼の上に置かれました。わたしの重荷も、あなたの重荷も。
 それゆえにこそ、主がそこで負われた十字架は、あのようにも厳しく、重いものとなったのでした。それゆえにこそ、主はそこで、大声で叫ばれたのです。「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と。
 あの十字架が、そのようにも重く、主を押しつぶすばかりになったのは、すべての人間の重荷が、大きいものも、小さいものも、正しいものも、愚かなものも、余すところなく、このお方の上に置かれたためでした。
 キリストは、ご自身の命という、大いなる犠牲を払って、それらのものを、神の御前にささげられたのです。そして、この方が、三日目に死人の中からよみがえったとき、これらの人間の重荷すべてを清め、聖なるものとし、その服従と苦しみによって、神の心にかなうものとし、その御前にささげられたのです。
 信じられますか。そのようにして、わたしの荷や、あなたの荷は、実際には、神の御前に、キリストによって、置かれているということを。神は、それらのものを、イエス様のとりなしのゆえに、憐れみ深く、慈しみをもって、扱ってくださるのだということを。

 そのようであるので、わたしたちの重荷を、主にゆだねるということは、難しいことではなく、努力を要することでもありません。むしろ、信じることです。
 「あなたの重荷をゆだねよ」とは、すでに、それを負ってくださっている方を見よ、その方が負ってくださっているままにせよ、それに自分で触るな、それはもはや、あなたのものではなく、神のものだからである、ということです。
 したがって、わたしたちは、それぞれ持っている重荷を、神が担ってくださっているものとして、見るべきです。しかし、もし、そのように考えようとしないで、悪い病にかかっているかのように、重荷によって、自分を疲れさせたり、自分を破壊に追い込んだりするならば、それは、間違った仕方で、神のもの(あなたの重荷!)を用いているということです。
 また、その重荷を、無理やり忘れようとしたり、押しつぶしてしまおうとするならば、それも、すでに神が負ってくださっているものを、間違って使っているのです。
 ですから、わたしたちには、たったひとつの、単純なことが残されているだけです。主が、それを引き受けられ、担われたのであるから、そのあるがままの場所に、キリストのもとに、わたしの重荷を置いておきますと。

 そこで、次に、こう言われています。「主は、あなたを支えてくださる」。そのことが、わたしにも、ここにいるみなさんにも、すべての人間に必要なことです。わたしたちの重荷は、わたしたちのものではありませんけれども、人の生活に、くっついています。
 ある重荷が、取り除かれたとしても、遅かれ早かれ、新しい心配事が、その代わりに出てくるでしょう。わたしたち人間が、地上で生きる限り、それはあるのです。この地上の生活では、荷を持つこと、苦しむことから、完全には自由になれないために、主によって支えられることは、どうしても、必要なことです。
 見よ、わたしたちの荷を、すでに負われた方は、今、重荷の中で、苦しまざるを得ないわたしたちを、支えてくださる。たとえ、わたしたちの荷が、わたしたちを押さえつけても、わたしたちが押しつぶされてしまうことを、神様は許されない。
 たとえ、重荷が、わたしたちを痛めつけても、神は、わたしたちが絶望に陥ることから、守ってくださる。人は、主が配慮されるから、重荷の中でも、希望を失わない人間にされていくことでしょう。

3.重荷を、なお背負う意味
 そのように、主に重荷を任せてしまうなら、わたしたちは、どのような体験をするでしょう。主はまず、そのような人を、義なる人と呼ばれます。義なる人。正しい人とは、自分の考えや信念で、どこまでもやっていこうとする人のことではなく、神を自分よりも正しい方だと認め、自分の重荷を主にゆだね、そのようにして、自分を信用せず、かえって神を信用する人のことです。
 わたしたち自身が正しいのではなく、わたしたちが信じる神様が正しい方であるので、わたしたちは、自分の欠けや弱さ、非常に深い罪を持ったままでも、キリストにおいて、義なる人とみなされます。主に重荷をゆだねて生きるとき、そのほかの点で、どのようなことがあったとしても、その人は、神の御前に、義人であるのです。神のもの(あなたの重荷!)を、正しくも神のものとしているのですから。

 第二に、もし、わたしたちが、重荷を主にゆだねるならば、その重荷は、清められた形で、神の前に差し出され、神に受け入れられるものになっているということを、知るでしょう。人間の重荷の中には、深刻ではあるけれども、愚かな、曲がったものが、非常に多くあります。
 しかし、主が、わたしたちの荷を、その弱さと邪悪さの中で、すでに、清めの火を通して担われ、正しいものにしてくださった。このことを知ることができるのは、まことに、偉大なことではないでしょうか。
 わたしたち信じる者には、無意味な重荷や、イエス様と関係のない重荷はひとつもない!人が、このことを知るならば、怒ることをやめ、謙虚になることができ、重荷に苦しむ中でも、神に対して、信頼の心を持ち続けることが許されると思います。そのとき人は、神の御前で泣くことが許され、神と共に悩むことが許されます。神は、自分よりも、わたしたちひとりひとりのことを、この世の罪深さを知っておられる方、そういう方と一緒にです。

 さらに、そのように、主に重荷をゆだねるときには、ほかの、多くの兄弟姉妹たちが、同じように、主に重荷をゆだねていることを見る幸いを得るでしょう。そこで、彼らの重荷が、主によって聖化されていること、また、彼らが、重荷の中で、神に支えられていることを見る、その励ましは、如何ばかりでしょうか。
 その人たちは、この地上の人生を、おのおのの重荷を背負いながら、神に従っている神の家族です。その人たちは、互いの重荷を、神のものとして誠実に背負い、生きています。キリストと共に苦しむその人たちは、同じように苦しむ同胞を見て、「主に重荷をゆだねなさい」と勧めることのできる、真に心優しい者たちです。そのような、信仰の交わりを、重荷を神にゆだねるということは、持っているのです。

 そして、最後に、もし、わたしたちが、重荷を主にゆだね、それでもなお、大きく苦しまなければならないとすれば!・・・それは、主イエス・キリストが、あなたを、ご自分の特別な友、選ばれた同行者、みもとに近い仲間にしてくださったということです。神が最も愛された者たち、そして、何よりも神様だけを愛した者たちだけが背負った運命。それは、キリストと同じ、十字架だったのではありませんか。パウロ、ルター、ボンヘッファー・・・。
 この世において、重荷と痛みに耐え続け、神に希望を持ち続けるということは、何よりも尊い業であって、何も生み出していないようでも、イエス・キリストの苦しみを証しし、神の忍耐を表しているがゆえに、それは、この上もなく、意味深いこと、特別に、光栄あることなのです。みなさんは、そのようにして重荷を主にゆだね、そのようにして神の戦いを戦っておられるのです。
by psalm23-6 | 2008-06-14 07:22 | 聖書からの説教 | Comments(1)
Commented by psalm23-6 at 2008-06-14 07:32
虐げられている人、苦しみにあっている人、キリストを選び、キリストだけを愛したゆえに、そうなっている人。そのような人たち、喜んでください、その痛みは、決して無意味なものではありません。それは、キリストに知られ、キリストによって受け入れられているものです。だから、愛する人たち、命ある限り、キリストへの信仰によって、それを担い、神と共に歩きましょう。あなたの苦しみは、神の苦しみ、あなたの深まりは、神の子としての思いと信仰の深まりなのですから。
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