人が笑う

聖書箇所 創世記21:1~7

 主は、約束されたとおり、サラを顧み、さきに語られたとおり、サラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に、男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
 アブラハムは、サラが産んだ自分の子を、イサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは、百歳であった。
 サラは言った。「神は、わたしに笑いをお与えになった。聞く者はみな、わたしと笑い(イサク)を、共にしてくれるでしょう」。
 サラは、また言った。「誰が、アブラハムに言いえたでしょう。サラは、子に乳を含ませるだろうと。しかし、わたしは子を産みました。年老いた夫のために」。

1.神の笑いを
 クリスマス、おめでとうございます。今日は、イエス様の誕生を祝う日ですが、旧約の時代にも、ひとりの赤ちゃんの誕生を祝う出来事がありました。ここでは、百歳のおじいさんと、90歳のおばあさんに、子供が生まれています。その子の名は、イサクでありました。
 イサク。それは、「人が笑う」という意味の名前です。この名前をつけたのは、両親ではなく、神様でした。信仰の父アブラハムの息子は、「人が笑う」という名前を、神様からいただきました。お母さんのサラも、これにならうかのように、「神は、わたしを笑わせてくださった」といったのです。

 みなさんは、お子さんをお持ちでしょうか。実に、わたしたちに子供を与え、それと共に、人生に笑いを与えてくださるのは、主なる神様であります。それまでの人生が、辛いものであり、多くの労苦で満ちていようとも、家庭に新しい命が与えられるとき、わたしたちはもう一度、人生に対して「やってみよう」という気持ちになるのではないでしょうか。
 わたしたちひとりひとりも、生まれてきたから、今ここにいるのです。人の子の誕生に、そのような喜びが伴っているとすれば、神の御子のお生まれには、どれほどの喜びがあることでしょう。

 そのような、神様が与えてくださる笑いというものが、信じる者の人生にはあります。アブラハムとサラは、これまで、まったく笑うことのできないのような時期を、経験してきました。けれども今、アブラハムの家は、笑いであふれます。「神は、わたしを笑わせてくださった」。
 その子イサクは、人間の計画から生まれた子供ではありません。神様の救いの計画による子供です。神様が、アブラハムをもってお始めになった計画は、イサクを経て、イエス・キリストへ、また主を信じるわたしたちへと流れ込みます。
 地上の人間の間で、生まれる初めから、笑うことのできる理由を持つ人があるとすれば、それは、イサクです。神様の計画によって生まれた、約束の子。この子は、単に、自分のためにだけ笑うのではありません。地上のすべての人々のために、笑うのです。
 神様は、わたしたち人間に、笑いを備えてくださるお方です。中でも、ひとりの人間が、その曲がった人生に気がついて、神に向かって正しく向きを変え、神を信じる新しい歩みをするような場合には、いつでも、そこに笑いが訪れます。
 「罪人のひとりが悔い改めるなら、神の御使いたちの間には、大きな喜びがあるであろう」。イエス様は、そう教えられました。

 しかし、この世には、そういう笑いではない笑いもあります。悪魔のような笑いというものも、あるのです。神様を信じない笑い、人を軽蔑するような笑い。お笑い種、意地の悪いあざけり、思いやりのない、ニヤニヤとした笑い。そういう心ない笑いが、この地上には絶えません。それによって傷ついた人も、絶えることはありません。
 実に、イサクが生まれたことや、イエス様がお生まれになったことは、そのような種類の笑いを受けてきました。百歳の人に、子供が生まれたのです。人が笑わないでしょうか。男を知らないはずの乙女に、子供が生まれたのです。それを、神様の計画による誕生であるというとき、ほとんどの人が笑わないでしょうか。
 それでも、神に選ばれているこの人たち、神を信じる人たちは、神様の言いつけに従って、新しく生まれた子に、イサクという名前をつけます、アブラハムとサラが。イエスという名前をつけます。ヨセフとマリヤが。
 このふたりは、神様の約束によって、誕生したのです。イサク、それは「神は、わたしを笑わせてくださった」という意味です。そしてイエス、それは「彼は自分の民を、罪から救う」という意味なのです。
 このことを、馬鹿にしたい人がいるなら、クリスマスの外で、笑わせておけばよいのです。わたしたちは、神を信じる者、罪を赦された者として、神の与えてくださる笑いを笑います。

2.神は、笑わせてくださった
 イサク。人が笑う。「神は、わたしを笑わせてくださった」。アブラハムとサラが、またヨセフとマリヤが、笑うことのできたわけは、神様が、その約束を守ってくださったということにも、理由を持っておりました。
 アブラハムは、神様から約束を受けておりました。「わたしは、あなたの子孫を多くするであろう」。この神様の約束から、イサクが生まれるまでの25年という期間を、この夫婦は、待たなければなりませんでした。信じて待つ時間が、長ければ長いほど、それが満たされたときの喜びは、大きいものです。
 神様の約束を待ち望み、それがかなったことを見る人は、この上もない満足と喜びの中で、心から笑うことができるでしょう。

 そういう点から申しますと、イエス様のお生まれは、イサクの誕生よりも、わたしたちの誰の誕生よりも、はるかに喜びが大きいものです。アブラハム以来、神を信じる人々は、神様が送ってくださる救い主を、この世を罪から救ってくださるお方を、2000年の長きにわたって、待っておりました。
 そして、ついに時が満ち、神の時が到来したとき、天使が現れて、羊飼いたちに告げました。「今日、ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主キリストである」。
 この神の子が生まれてくださったとき、神の笑いを笑うのは、もはや人間だけではありません。天の軍勢が現れ、神を賛美して言いました。「いと高きところには、栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ」。
 そうです、この方は、すべての泣く者、悲しむ者、貧しい者のために、万物を治める神様が、ついに送ってくださったメシアなのです。「今、泣いているあなたがたは、幸いである。あなたがたは、笑うようになるからである」。
 この世にあって、罪深い力に苦しみながら、試練の中にあって、神様を信じ続ける人にこそ、この御言葉は当てはまります。「今、泣いているあなたがたは、幸いである。あなたがたは、笑うようになるからである」。

 人生には、いろいろな笑いがあるでしょう。苦しむことの多い、わたしたち人間の生涯にも、楽しいことも、たまにはあるかもしれません。しかし、神様のご計画の完成ということを考えるとき、イエス様の誕生ということを考えるとき、「神によって笑う者こそ、本当の意味で、笑う者である」と、いうことができるのではないでしょうか。
 アブラハムやサラのごとく、あらゆる人としての弱さの中にありながらも、なお神の約束を信じる人、さかんに物笑いにされるにもかかわらず、キリストに望みを託す人。その人こそは、永遠の祝福された笑いの中に、あるのです。
 「主が、シオンの繁栄を回復されたとき、われらは、夢見る者のようであった。そのとき、われらの口は、笑いで満たされ、われらの舌は、喜びの声で満たされた。そのとき、『主は、彼らのために、大いなることをなされた』と言った者が、もろもろの国民の中にあった。主は、われらのために、大いなることをなされたので、われらは喜んだ」(詩編126編)。

 わたしたち信じる者の人生の最後は、喜びをもたらしてくださる神様のゆえに、笑いとなるのです。それはかつて、アブラハムとサラを喜ばせ、ヨセフとマリヤ、羊飼いたちや博士たちを喜ばせた、あの神の笑いです。
 「神は、わたしを笑わせてくださった!」。今、泣いているわたしたちを慰め、罪から救い出してくださる、イエス・キリストの誕生を覚えて、わたしたちも、神の約束を信じて、笑うようになりたいと思います。

<祈り>
 天にいます神様。
 わたしたちに、あなたの全能と、あなたの憐れみと、あなたの正義とを、信じさせてください。
 あなたの赦しと、あなたの導きを知らない者たちに、あなたの平和を示してください。
 あなたは、ご存知です。いかに多くの者が、罪の誘惑を受けて、思い上がり、そして、罪の力に出会っては、疲れ果てていることを。
 いかなる事情のもとでも、あなたの勝利をわきまえる者としてください。わたしたちに、神にある聖なる笑いを教えてください。
 そして、あなたは、いかに多くの人々の間で、愛が冷えているかもご存知です。 あなたに頼るすべての者の心を、愛と忍耐で満たしてください。
 来年も、イエス様にある愛から、何者も、わたしたちを離すことのないようにしてください。
 主の御名によって、祈ります。アーメン。
by psalm23-6 | 2007-12-21 08:59 | 聖書からの説教 | Comments(1)
Commented by psalm23-6 at 2007-12-21 09:06
笑い。快い笑い。みなが、それぞれの事情にわずらわされているにもかかわらず、心から笑うことのできる日が、クリスマスです。みなさん、心から笑っておられますか。イエス様のお誕生を思うならば、そのような笑いを、神は与えてくださるでしょう。
<< リュティ 小説教集 「この日言... リュティ 小説教集 「この日言... >>