あなたがたの父が憐れみ深いように

聖書箇所 ルカ6:36~42

 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
 人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは、自分の量る秤で量り返されるからである」。
 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は、師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。

1.あなたがたの父
 みなさん、おはようございます。みなさんが、どのようにお感じになっておられるか、分かりませんけれども、説教というのは、牧師が個人的に作るものというよりは、教会の中で、いろいろな交わりを経て、熟成されていくという面があります。
 わたしの説教が、ある程度、良いものであったとしたら、それは、聞き手であるみなさんのおかげでありますし、わたし自身、それだけ、この教会において、慰めを受け、励まされたということです。
 このように、繰り返し奉仕することが許されましたことを、改めて、お礼申し上げたいと思います。まことに、ありがとうございます。

 さて、今回は、ルカ福音書の有名なところから、恵みを分かち合ってみたいと思います。先ほど、「説教は、教会の交わりの産物である」、ということを申しましたが、今朝のような御言葉の説教においてこそ、その点が、明らかに表れるのではないでしょうか。
 「人を裁くな」。「赦しなさい」。「兄弟の目にあるちりを取り除く」。イエス様はここで、主にある交わりのあり方を、まさに説教しておられるのです。その場合、わたしたちは、自分たちの交わりの現実というものを無視して、これを読むことはできないでしょう。語るほうといたしましても、自らの属している群れの交わりに対して、語るのですから。
 どこから、語るべきでしょう。また、聞くべきでしょうか。人間の知恵や配慮で、交わりが回復するなら、人間とは、なかなか大した生き物ですし、そもそも、福音など必要ありません。どこどこまでも、同じところを回っているだけの生き物、それが人間です。罪人です。わたしたちは今朝、その堂々巡りから解放されて、神の高みに、恵みの高き頂に、共に登っていきたいと、願っています。

 さあ、わたしたちは、今朝与えられた、この御言葉を、どのように読んだらいいでしょうか。「人を裁くな。自分も裁かれないために」。神の裁きから、自分を守るということをもって、結論とするべきでしょうか。
 それとも、「赦しなさい、そうすれば、赦される」ということ、神の赦しを得るために、ひたすら、自分も赦し続けるということをもって、己の人生訓とするべきでしょうか。
 そのように、神というお方を、何か恐るべきもの、あまりにも清くて、わたしたちには、手が届かない方として認識することが、ここで求められているのでしょうか。

 実に、わたしたちが、神様を考えるときのあり方は、いつもそのようです。人間は、神、キリスト、聖書という言葉を聞くときに、決まって、こう考えるのです。
 「きれいごとを言うな。そんなものは、口だけのことにすぎない。人間の実際は、そんなものではないし、変わりもしない。それよりは、赦せもしないし、裁くことばかりする人間の世界を、うまく乗り切っていくことを考えるほうが、ずっとましだ」と。
 主は、そのような人間の実態をご存知です。「アダムよ、どこにいるのか」とお尋ねになったときから、人間が、神と神の言葉から、逃げ隠ればかりしているのを、知っておられるのです。
 人は、神をまっすぐに見つめることを恐れ、神様からまっすぐに見つめられることを、恐れています。神を信じるなど愚かしいと、笑い飛ばしながら、神の手が、そんな自分に伸びてくることを恐れて、占いをしてみたり、ゲンをかついだりしています。

 それですから、イエス様は、それらの言葉を言われる前に、「あなたがたの父は、憐れみ深い」ということをおっしゃったのでした。正しく読むならば、主の御言葉には、わたしたち罪人を、暗いところから引き上げるような言葉が、必ずあります。
 わたしたちは、「あなたがたの父は、憐れみ深い」というこの言葉を、まず、よく聞いてから、先に進むのでなければなりません。「あなたがたの父は、憐れみ深い」。これは、わたしたちのパンであり、命綱であって、これを持たないまま出発するなら、餓死することは間違いありません。
 そうです、この言葉は、わたしたちが、最初に自分自身をそこに置かなければならない、恵みの高き嶺であって、わたしたちは、キリストと共に、「わたしたちの父である神様は、憐れみ深くあってくださるのだ」ということに、しっかりと立ち、そこからはじめて、人生の深い谷を正しく見下ろすことができるのです。今回の御言葉全体も、そのようにしてはじめて、恵みの御言葉として、理解することができるのです。

 「あなたがたの父は、憐れみ深い」。クリスチャンとして、わたしたちは、神様から、何を知ることを許されたのでしょうか。神を信じる者は、何を知っているべきなのでしょうか。それは、一言でいうなら、今回学ぶべき、中心的な御言葉、「あなたがたの父は、憐れみ深い」ということであります。
 わたしたちが試練に遭うとき、わたしたちの慰めとなることは何か。わたしたちが、絶望の淵にいるときでも、わたしたちの希望となることは何か。
 それは、「わたしは多く赦してきたので、今回の試練も、神は赦しをもって、わたしを扱ってくださるだろう」ということではない。また、「わたしは、あまり裁いてこなかった。だから、神も裁きをもって、わたしを扱いはしないだろう」ということではない。気をつけなさい。神は、あなたの取引相手ではない。
 そうではない。「あなたがたの父は、憐れみ深い」ということであります。わたしたちが依り頼み、それによって、自分を支えることができる事柄は、ただひとつ。「あなたがたの父は、神様というお方は、憐れみ深い」ということ。それ以外には、ないのだと思います。

 「あなたがたの父」。神様は常に、イエス・キリストの語りかけを聞く人々の、父であられます。「あなたがたの父」!イエス様は、神様のことを、そのように呼ばれます。わたしたちには、自然の父、肉の父親というものがおりますし、また、人によっては、精神的な父、「先生」と呼ぶことができるような恩師を、持っているでしょう。
 しかし、ここで、イエス・キリストが紹介してくださっている「父」は、人間にとって、まったく別の「父」であります。それは、本当なら、ただイエス様だけの父であられる、父なる神様のことであります。
 この永遠の父は、この世を愛し、御子をこの罪の世に送って、御子のお働きのゆえに、わたしたち信じる者を、ご自身の子供にしようとされた。それだから、イエス様は、ここで、わたしたちに向かって、神様のことを「あなたがたの父である」と、語っておられるのです。

2.裁き、赦す神
 それは、本当でしょうか。わたしの父親が、神様である、とは・・・。イエス様が、そうおっしゃるのです。憐れみ深い方として、神は、わたしたちの父であられると。神の憐れみ?神様は、どのように、憐れみに富むのでしょうか。神様は、誰に対して、憐れみを垂れてくださるのでしょうか。
 「正しい者に、医者はいらない。わたしは、罪人を招いて、救うために来たのである」。神様は、ご自身に仕える者や、ご自分に対して礼儀正しい者にだけ、憐れみ深いのではありません。正直な、清らかな者に対してのみ、情け深いのでもない。
 わたしたち人間は、神様が父であることを要求できるような、正しい人間ではない。いや、そのような、純潔で正しい人間は、今までに、ひとりも存在しませんでした。わたしたち罪人は、神様を、自らの父と呼ぶことを、許されていません。
 しかし、神というお方は、「恩知らずにも、悪人にも、情け深い」。それゆえに、わたしたちは、神様を父と呼ぶことが許されるのです。

 そして、わたしたちにとって重要なことは、「イエス・キリストにあって、はじめて、わたしたちは、憐れみ深い、父なる神を持つことが許される」ということです。それは、どういうことなのでしょうか。
 わたしたちは、そのことを、「あなたがたの父は、憐れみ深い」という、キリストのお言葉の、後の部分から、詳しく知ることができるのです。
 そこで主は、まさに、「裁く、赦す、罪人だと決める」ということを、お語りになっています。裁くのか、赦すのか、罪人だと判決するのか。それらは、わたしたちというよりも、第一に、神様がなさる事柄ばかりではないでしょうか。
 そして、それらのことを、キリストが、語られます。わたしたちに成り代わって、神から裁かれた方が。赦されず、罪人だと判決された方が。わたしたちには、御子を裁かれたゆえに、もはや、わたしたちを裁かない神様が、おられます。
 神は、わたしたちについて、当然考えるべき悪を取り上げず、また、語りません。神様は、わたしたちに関して、訴えるべきである事柄に、いつまでもこだわりません。
 なぜでしょうか。神は、人間世界の悪を見ないのでしょうか。いえ、神様は、誰よりも真剣にそれを見ておられます。その清さにふさわしく、誰よりも深く、それを悲しみ、怒られます。しかし、神は、その報いを、わたしたちに向かってではなく―これが、「神様が憐れみ深い」ということの本質なのですが―わたしたちと交わり、わたしたちの悪の一切を引き受け、苦しまれたお方に、向けられたのでした。
 それが、すなわち、わたしたちの悪を身に負い、担われた、自らは何の悪を持たれない、神の御子イエス・キリストであられました。この方のゆえに、神は、わたしたちに憐れみ深い。この方のゆえに、十字架のゆえに、わたしたちは、裁かれない!
 イエス様の上にくだったこと。それは、すべて、わたしたちの上にくだるべきはずのことでした。「あの人間は、神を冒涜した!」。「あの人間は、死罪に値する。しかも、十字架刑に」。そのようなことが、神の名において、わたしたちではなく、イエス様について、言われました。
 「わが神、わが神、なぜわたしを、お見捨てになったのですか」。見よ、それは、罪人の叫びだ。そこで、罪のないひとりの方が、地獄の苦しみを受けておられる。しかも、罪あるわたしたちが、赦されている。
 神が、わたしたちを、このひとりの方のゆえに、その愛する御子のゆえに、裁きと刑罰とを免れさせてくださる。そして、その裁きと刑罰が、この身から取り去られたゆえに、神は、わたしたちを、ご自身の子と呼んでくださる。
 これが、「神が憐れみ深い」ということであります。みなさん、これが、「神が父である」ということなのです。

3.憐れみのある人生
 それであるから!それであるから、主イエスは、言われるのです。「人を裁くな」と。「赦しなさい」、「与えなさい」と。それが、神様を、憐れみ深い父として持つことが許された者に、ふさわしい態度、当然の態度であるからです。
 「あなたがたの父が、憐れみ深いように、あなたがたも、憐れみ深くなりなさい」。誰に対しても、どんな事柄に対しても、恵みと憐れみをもって対する。それは、神様に恵まれた者だけに許されている、すばらしい祝福です。「父と同じように、あなたがたも、憐れみ深くあれ」。それは、祝福であって、規則ではない。それは、福音であって、律法ではありません。

 ところが、ここには、それとは反対の、憐れみ深くない態度、神様から赦しを受け取らず、したがって、誰をも赦さない態度というものも、記されております。イエス・キリストなしには、父なる神様の憐れみを信じることなしには、そういうことが起こるのです。
 そうした生き方のことを、主は、盲人が盲人の道案内をし、ふたりとも穴に落ちるようなものだと言われています。それは、兄弟の目にあるおが屑を取ろうとして、自分の目の中にある丸太に気づかないようなものだと、言われているのです。
 わたしたち自身、神の憐れみを受けながら、なお人を裁き、赦さず、与えないなら-そのとき、わたしたちのうちに、本当の憐れみはありません。そのとき、神の憐れみを拒んだことの、必然の報いを受けることでしょう。
 すなわち、「あなたがたは、自分の量る秤で、量り返される」。その場合には、キリストにおいて、廃棄されたはずの律法が、ことごとく力を持って、再びわたしたちを、憐れみのない生活へ引き戻す。
 わたしたちが、誰かを裁くならば、それは、自分がいつか裁かれることの、しるしとなるでしょう。わたしたちが、神様を父として持つことに感謝しないとき、神の恵みによって生きようとせず、憐れみをないがしろにして生きるとき、わたしたちは、人生の中で、罪人としての報いを受けることになるでしょう。

 まことに、こういうところにおいて、人は、隣人の傷、本当の痛手に、なんと正当な理由をもって、触れることでしょうか。確かに、わたしたちが裁いたり、断罪したりすることは、秩序の中にあることでしょうし、人間はみな、お互いにそのようなものだから、他人をそのように扱うことは、避けがたいものだと、考えるかもしれません。
 しかし、救い主は言われる。それは、盲人が道案内をするようなものではないかと。わたしたちは反論する。わたしたちの目の中に、丸太があるにせよ、兄弟に対して、その目の中にある危険を注意することは、そんなにいけないことですかと。
 いけなくはない。それが、「あなたがたの父は、憐れみ深い」ということに、基づいてさえいたら!わたしたちはやはり、このことがよく分かっていない。「あなたがたの父は、憐れみ深い」。それは、わたしたちが、本当に心から受け取り、味わい知る必要のある事柄、すべての判断と行いの土台となる事柄だからです。
 この恵みに、正しく基づくことであるならば、裁くことがあっても、それはもう、裁きではない。この憐れみに、きちんと従って行われるのであるならば、断罪することがあっても、それはもう、断罪ではない。それは、祝福であり、福音である。
 「あなたがたの父は、憐れみ深い」。この真理から流れてくる幸いは、それほどに大きく、広いものであるのです。

 わたしたち人間にふさわしい生活、特に、主を信じる者にふさわしい生活は、「あなたがたの父は、憐れみ深い」ということに基づいて、生きる生活です。わたしたちは、イエス様から、この御言葉を語りかけられるとき、そのような人生へと招かれているのです。
 「あなたがたの父が、憐れみ深いように、あなたがたも、憐れみ深い者になりなさい」。そうすれば、わたしたちの懐には、神の恵みが「押し入れられ、揺すり入れられ、あふれるほどに量りをよくして、入れてもらえる」。
 神様はそのように、わたしたちの人生を、イエス・キリストにあって、裁き合いにならず、与え合うもの、赦し合うものへと変えてくださるのです。
by PSALM23-6 | 2007-11-22 15:15 | 聖書からの説教 | Comments(1)
Commented by PSALM23-6 at 2007-11-22 15:26
赦しの問題は、いくら説教されても、懇々と説かれてみたところで、なかなか人の心を素直に広げることはできないものです。聖霊の力、神の祝福の力があってはじめて、それらの御言葉は、恵みとしてわたしたちのところへやってくるでしょう。祈りをもって、御言葉を聞いてください。とりなしをもって、説教壇に臨んでください。憐れみ深い父が、わたしたちにはいてくださるのですから。
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