聖書箇所 ローマ8:29
神は、前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようと、あらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で、長子となられるためです。 1.回復される神のかたち みなさん、おはようございます。今日は少し、耳慣れないお話を、しようと思っております。聞き慣れないお話だと申しますのは、わたし自身、そのことについては、割と最近になってから、しみじみと分かるようになったからです。 信仰の道というのは、実に深いものだと思います。以前には、当たり前のように読みすぎていた聖書の箇所が、突然、神の恵みを伝える、すばらしい言葉となって、響いてくるということはありませんか。 わたしにとりましては、このローマ8:29が、それでありました。ここで神様がおっしゃっていることの恵みを、今日は、みなさんと分かち合ってみたいと願っています。 ここで、信じる者に約束されております、「キリストに似るようにされる」ということは、理解するのが困難なほどに、大きな恵みです。ちょうど、血のつながった家族が似ているように、わたしたちは、神の長子であられる、イエス・キリストの弟、妹として、イエス様のお姿を、己が身に負うようにされるのです。 「キリストに似るようにされる」。それは、信じる者に与えられる、最高にして、最後の約束であると、いうこともできるでしょう。それの前では、ほかのすべての「かたち」が、消えうせてしまうような、イエス様の「かたち」。十字架と復活のかたちが、わたしたちの人生に刻み込まれるようになる、というのですから。 救い主のお姿が、徐々に、信じる者の中に深く迫ってきて、その人を満たし、ついに、その人自身のかたちを、キリストに向かって造り変えてしまう。これが、今日、学んでみたい事柄であります。 イエス・キリストは、わたしたちの教師であり、わたしたちは、その弟子です。しかしそれは、弟子というものは、先生に近いものになるけれども、結局は、別々の人生ですというのではありません。キリストを信じる者。彼は最後には、この方と、まったく同じかたちをとる、まったく同じ道を歩むというのです。 イエス・キリストは、生ける神様のかたちであります。この方は、偶像ではありませんから、キリストのかたちは、ただ信じる人間が、外から眺め、崇めているだけのものではありません。キリストのかたちは、信じる人の中に及び、その中で生きて働きます。 神のかたちは、そのように、信じる者に迫り、そのかたちを造り変える力を持っています。この方を信じる人は、その聖なる力を受けて、そのかたちを、身に刻まれるようになります。その人は、救い主の兄弟として、姉妹として、神に似た者として、キリストと並んで立つのであります。 今日の説教題は、「キリストのかたち」です。考えてみますと、聖書には、昔、神様がアダムをご自分の「かたち」に似せて造られたと、記してあります。わたしたち人間は、造られた者でありながら、唯一、創造主なるお方と、同じかたちを持っている被造物なのです。「神の似姿」は、人間だけに与えられた、すばらしい尊厳であったのです。 アダムは、被造世界の中で、唯一、神のようである。わたしたち人間は、神様から受けたこの光栄を、感謝と信仰をもって、その身に担うべきでありました。 しかし、人間をそそのかす悪魔は、アダムに向かって、こう言ったのでした。現代の、多くの人たちがそう考えるように。「人間は、神から与えられたものなどで、満足しているべきではない。自分自身の努力と、自分自身の理想によって、神のようになるべきだ。自力で頑張ってこそ、人生には、意味があるのだ」と。 これが、試みる者の偽りでありました。これが、サタンによる罪への誘惑でありました。そこで、アダムとすべての人間は、神の恵みを投げ捨てて、自分自身の生き方を選んだのでした。自分勝手な、それぞれの「かたち」を。 みなさん。これが、罪に堕ちるということであります。これが、人間が堕落したということであります。人は、神様ではなく、自分という偶像を崇拝して生きるように、変わり果てた。みなさんは、この罪深さを信じておられますか。このことが、決定的な堕落であると、信じますか。 それ以来、人間は、人間としての尊厳を失ったままに、「ただ」生きているだけです。人間は、言わば、人間であることを抜きにして、生きているのです。それでも、人間というものは、それを知ってか知らずか、失われた「神のかたち」を、何とか取り戻そうとして、むなしい努力を続けてまいりました。 不思議に思われませんか。文化や芸術というものが、最後には、ほとんど必ず、神を語るようになるのは、なぜでしょうか。彫刻の中に、絵画の中に、歌謡曲の中にさえ、失われた「神のかたち」にあこがれる、人間の心があります。 医療や福祉、信仰など、まったく認めていないかに見える、自然科学でありましても、人間の営みのすべての中に、「神のようでありたい」、「死なないようになりたい」ということを目指す、ひそかな願いが、隠れているのではないでしょうか。 そうです。けれども、実際には、そうした人間の努力が、真剣であればあるほど、神様に対する人間自身の矛盾は、ますます深まります。さまざまのことを試みてはみますけれども、「自分は、やはり、失われたままである」という苦さと痛みを、人類は、味わってきたのです。 神様はしかし、この失われた人間、憐れな被造物から、目をそむけることはなさらなかった。神は、わたしたちの中に、もう一度「神のかたち」が造られることを、お望みになられます。主は、この地上世界に、あらためてご自身の「かたち」が現れることを求めて、われわれ罪人を、愛されたのです。 ですから、キリストに似るということ、「神のかたち」というものは、人間が、自分で勝手に作り上げた「かたち」のことではありません。わたしたちが、それぞれに思いついた「理想」という、偶像のかたちに向かって、努力することにあるのではありません。 むしろ、「神のかたち」の再建は、ただ、神の憐れみによってのみ、なります。神様の憐れみによって、神様ご自身が、失われた人間の「かたち」を取り戻してくださる以外には、すべはないのです。 それゆえに、人間が、神のようになろうとする努力は、すべてうまくいきません。不老不死の薬や、親子関係を回復させる薬は、この世のどこにもありません。人間が、神になるのではない。そうではなくて、人間の中に、神のかたちを回復させるためには、神が、人間となってくださるのでなければならない。「神が人間となる」。・・・これが、クリスマスに起きた奇跡です。 2.キリストに似る 「神様のかたち」は、そのようにしてだけ、人間の中に再建されます。この場合、大切なのは、再建は、人間の全体にわたっていなければならない、ということです。すなわち、救いとは、「神様に対する考え方を変えてみた」とか、「自分の行動のひとつひとつを、御言葉のもとに考え始めた」とか、そういう部分的なことを、言っているのではないのです。 神様による人間のかたちの再建は、人間の全身に渡る。体、心、霊という、人間の姿の全体が、「神のかたち」をとるのでなければならない。神様は、全体として崩れておらず、汚れていない、完全な神のかたちを、人間の中に見るときにだけ、これを「良し」と言われるでしょう。 それですから、「神のかたち」の回復におきましては、神様の恵みだけが、問題なのです。そのような、全体的で完全な、再建が目指されるのであれば、わたしたち人間の努力や頑張りなどは、到底、及ぶところではないからです。 罪に堕ちたわたしたちは、自分では、「神の姿」をとることができないのでありますから、助けになる道は、ひとつだけです。 「神のかたち」を与えるため、神ご自身が、人間の姿をとって、人間のもとに来られます。神が、イエス・キリストを、この世に遣わしてくださいます。そこに、救いは存在します。 この方は、まさに、体と心と霊を持つ人間、全体としての人間でありました。このひとりの人間において、新しく「神のかたち」は造られるのです。人間の側では、決して起こり得なかった変化が、今や、このひとりのお方において、行われるのです。 「神のかたち」は、わたしたち失われた人間の、なまの姿、罪の肉と同じ姿をとって、この地上に来られた。このお方において、人間の堕落した姿は、神の姿にまで、もう一度、引き上げられるのです。 イエス様のお言葉、その生き様、十字架の死と復活において、「神のかたち」は、人間の中に、あらわとなる。生涯を通じての、あのお苦しみは、この罪深き世に、「神のかたち」を生み出すための、「生みの苦しみ」にほかならない。 主は、そのためにこそ、罪と死の、この世のまっただ中に、身をおかれたのです。そのためにこそ、主は、人間的な肉の苦しみを引き受けられました。主は、そのためにこそ、罪人に下される神の怒りと裁きに、へりくだりをもって服されました。主は、そのためにこそ、死と苦難の中で、神の御心に従順であり続けられました。 みなさん、これが、「神のかたち」が回復される過程です。貧しさの中にお生まれになり、罪人の友であり、食卓を信じる者たちと一緒に囲まれた方。十字架において、神と人間に捨てられた、この方! よみがえられたこのお方にこそ、まさに、新しい体がありました。復活された、このお方にこそ、新しい霊と魂がありました。・・・そのように、イエス・キリストは、人間のかたちをとった神であり、新しい「神のかたち」としての、まことの人間なのであります。 それですから、この方を神と崇める者、救いを求めてイエス・キリストのもとに来る人は、このお方と、同じようにされます。 主イエスを信じるということ、生けるまことの神を信じるということは、実に、大いなることであります。それは、心が落ち着くとか、精神的な支えになるとか、そういうところにとどまってはおりません。 イエス・キリストを信じる信仰において、人は、「神のかたち」を回復されるのです。このお方にすがる人は、神の恵みを受け、キリストに似た者とされます。イエス様と同じ道に入り、同じ道を歩んでいく中で、「神のかたち」を、わたしたちは取り戻す。そのようにして、主なる神が、わたしたちの中に、現れようとなさる! 「キリストと共に、十字架につけられたのであれば、キリストと共に、復活するでしょう」。聖書は、信仰のスタートであるバプテスマについて、そのように語っております。 イエス様の救いにあずかりたいと願う人、神の子の健やかなかたちを、己の身に帯びることを願う人は、洗礼のとき、すでに、十字架につけられた方と、同じかたちを刻まれるのです。この罪の世で傷つけられ、苦しまれた、神の僕のかたちを、この身に、恵みとして、刻まれているのでなければならないのです。 そのようにして、神は、わたしたち信じる者の中に、「キリストのかたち」を生み出そうとなさいます。それですから、主は、わたしたち信じる者に「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。 また、それゆえに、いつも自分の十字架を避けるだけの者には、いかにして、安楽にしていられるかを考えるだけの者には、神の救いは遠いのです。むしろ、主を信じ、主の与えられる苦しみを担う者にこそ、神の救いは、確実であるのです。 さらに、それゆえにこそ、主は、本当の「幸い」を教えて、言われたのです。「悲しむ人たちは、幸いである」。キリストと共に、悲しむ人々こそ、幸いである。神の子と同じく、貧しい人々こそ、幸いである。キリストに似て、柔和な人こそ、幸いである。主の平和を実現し、主の義を求めて飢え渇く人こそ、幸いである。天の国は、その人たちのものである! 3.キリストと同じように そのように、「キリストに似るようにされる」ことこそ、「神のかたち」の回復です。それが、キリストと共に生きるということです。イエス・キリストの、地上でのお働きは、そういう意味では、まだ終わっておりません。主は、そのご生涯を、ご自分に従う者たちの生活の中で、さらに生きてくださる。 教会でよく歌われます、「主は今、生きておられる」という言葉の意味を、「我がうちにおられる」ということの真の意味を、今こそ、わたしたちは知るべきです。 人となられた方、十字架につけられた方、よみがえって栄光を受けられた方が、信じる者の中に入ってこられて、ご自身のかたちを生み出すため、わたしと共に生きてくださる。 これまで、イエス・キリストのまことの弟子たちは、みな、そのように生きてまいりました。これからも、そうでしょう。「わたしにとって、生きるとは、キリストである」。キリストの弟子、パウロが、そう言っています。 わたしたちが、どのように生きるべきか。どのように苦しむべきか。どのように喜ぶべきか。どのようにこの世を離れるべきか。そういうことは、わたしたちが、自分で考える必要はありませんし、考える意味もありません。 それらは、すでに定まっているのです。わたしたちは、キリストのように生きるのです。わたしたちは、キリストのように苦しみ、キリストのように喜び、キリストのように、この世を離れていくでしょう。 そのように、イエス・キリストと同じにされてしまうよう、神によって定められているという理由で、わたしたちは、この方と同じように、生きることができる。わたしたちは、この方が歩まれたように、歩む。わたしたちは、この方と同じ、神の子とされたのであります。 聖書という書物は、このように、救いの神秘というものを、わたしたちに教えてくれています。「キリストに似る」ということの恵みを、教えているのです。わたしたちが心を開いて、この真理を聞くことができれば、神の恵みは、わたしたちのものになるでしょう。 「わたしたちは、キリストに似るようにされる」。このことを、みなさんが信仰と思いを新たにして、考えてみてくださればと、思います。
by PSALM23-6
| 2007-11-09 09:08
| 聖書からの説教
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Comments(2)
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PSALM23-6 at 2007-11-09 09:24
不思議なことですが、キリストを愛するのに、キリストとその人生に似ることを愛さない、ということがあります。キリストの十字架には感謝するのに、自分の十字架には感謝しない、ということがあります。しかし、神の救いは、死が命となるところに、十字架が復活となるところに、苦しみが喜びとなるところにあるのです。まことの神の恵みは、そのようにも偉大なことであるですから、わたしたちは、主において、神のかたちが回復されたという確信と、そのかたちにますます似るために、キリストにお従いしていくという信仰をもって、イエス様の跡についていきたいと思います。
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PSALM23-6 at 2007-11-09 15:46
自分の人生に与えられた様々な試練をおもう時、「なんて理不尽なんだろう」「神様どうしてですか」と訴える自分がおりました。精一杯仕えてきた、という自己義認があったのです。しかし、キリストの十字架を見上げると、そこには罪なき神の、全く理不尽な杯を、飲みほされたお姿がありました。もはや、理由(わけ)など追求する必要はありません。この方とともに十字架に与る。この真理を知って、感謝するのみです。恵みを受け、十字架を受けて、歩んで参りましょう。
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