聖書箇所 Ⅱコリント2:5~11
悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。 わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。 わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。 1.細き道 これまでの説教は、おもに、個人的な信仰のあり方について分かち合っていただくもので、広がりというよりは、深みという表現が当たっているものが多かったと思います。深みから広がりへ、つまり、教会のあり方、救われた者同士にふさわしい交わり、救い主に即した共同体については、まだ一度も、お話ししたことがなかったと思います。 わたしたちは今日、そのような観点から、キリストの恵みに与りたいと願っております。神は、アブラハムひとりを選んだというよりも、彼から出るイスラエルという民を選ばれたのであり、イエス様も、別れの夜、「わたしは、(あなたを、ではなく)、あなたがたを選んだ」と言われたのです。ですから、ひとりで部屋に閉じこもり、聖書さえ読んでいればいいということでは、主にある信仰として、決して十分ではないでしょう。 もちろん、人がしばしばそのように、信仰というものを個人化してしまうのには、理由があります。ひとりで、優しい、美しい気分で、神様とキリストを崇めているのとは違いまして、人間と人間が触れ合うところには、教会といえども、様々な軋轢が生じるからです。 頑固なほどに、自分の考え方に固執する人がいたり、異なる見方をしている人がいろいろいて、まとまりを欠いたり、何か、自分の鬱憤を発散するために来ているような人と、関わらなければならなかったりして、なかなか簡単ではありません。 わたしたちが、神の民の群れに入り、そこで、キリストの体のひとつの器官、なくてはならない一員として、神にある責任と自由を正しく持つには、どのようにしたらよいのでしょうか。救いの喜びと希望をいつも保って、仮に問題が起こったとしても、共に恵みにすがり、持ちこたえながら、一緒に乗り越えていけるような力と秩序を、どのように与えられたらよいのでしょうか。 このような内容について、お話しするということは、多かれ少なかれ、みなさんの教会としての傷に触れることになるでしょうし、どんなに努力しても避けられなかった悲しい事態を、思い出すということになるかもしれません。 しかし、そういうところでこそ、わたしたちは、御言葉の力にすがりたいと思います。それはおそらく、牧師の優しさや、教会員のやる気を結集しても、癒すことのできない共同体としての傷、交わりの破れであったでしょうけれども、それを、神ご自身の憐れみと力によって、覆っていただきたいと思うのです。 さて。この難しい問題において、わたしたちは、どの門から入ってもよいし、どの道を選んでも進んでいけるのだと思わないほうがよいでしょう。イエス様は、神を信じるということ、その道を歩んでいくことについて、次のように言われました。「狭い門から入りなさい。・・・命に通じる門は狭く、その道も細い」と。主の教えられる信仰の道は、右にも左にもそれることがない、ただひとつの可能性を選んでいくものだと、言われたのです。 もし、わたしたちが、教会の交わりを建て上げていくという、この肝心なところで、見かけ上、歩きやすい、広々とした道を通っていくとしたら、それは、滅びへと堕ちていく、墜落の道なのかもしれません。 その際、人が、道の高みに達していればいるほど、墜落の痛みは大きくなるでしょう。教会に対する失望は、信仰に生きること自体のむなしさとなって、わたしたちを落胆させることでしょう。今回のⅡコリントの聖句も、神の道を歩いていくわたしたちに、ただひとつの、恵まれる道を指し示しているものです。 このとき、キリストの使徒であったパウロは、コリント教会の人たちから、ひどい侮辱を受けておりました。それが、どういう内容であったのか、わたしたちには、詳しいことは分かりません。 しかし、神によって使徒とされた人に対するものとしては、かなり不正な、いやらしいことが、パウロに対して、行なわれたに違いありません。そのような場合に、わたしたちは、どのようにするでしょうか。そこには、わたしたちが陥りがちな、右と左に大きくずれる道があると思います。 右側にある、谷間の道。それは、「わたしは、我慢がならない。わたしは、傷つけられた。わたしに刻み込まれた苦いもの、黒い汚点は、いつまでも心の中に残ってしまうだろう」と考える道です。これは、多くの人の心の中で、ほとんど規則になってしまっているものです。やられたら、やり返すという。 けれども、経験から、わたしたちがよく知っているのは、そのように、どこまでも根に持つ道は、結局は、相手だけではなく、自分をも苦しめることになるということです。それは、問題を泥沼化し、最悪の状況を招くだろうということです。 パウロは、さすがに、そのことをよく理解しておりました。執拗にこだわるという道は、神様からいただいた自由と命を無駄にする、罪なのであると。そんなことをしていると、恵みの道から堕ち、再び、律法と規則の道へと逆戻りになるのだと。 パウロは、キリストに贖っていただいた自分の魂についた塵を、払い落として言います。「その人は、わたしを悲しませたのではない」。救われた者は、キリストのものになったのであって、個人的な何かに寄りかかって,生きているのではない。パウロは、キリストにあって、自由であり続けようとします。彼は、自分の魂を守る術を知っているのです。 もうひとつの転落の道。左側にある谷間の道は、「わたしは、関わりたくありません。そのような人を、相手にする気もありません。馬鹿馬鹿しいので、もう放っておいてください」と考える道です。 前の道と比べますと、この魂は、すでに、随分傷ついているのだと思います。もはや、道を正す気力もなえてしまい、これ以上、何もする気がなくなって、心がうつろになっているからです。キリストへの信頼は、失望に変わってしまったのです。 パウロは、確かに「その人は、わたしを悲しませたのではない」と言いました。が、「もう、ひとりにしておいてくれ」とは言わず、すぐに続けて「その人は、あなたがたすべてを、悲しませたのだ」と言っているのです。 彼は、自らを破滅させるような、怒りによって縛られはしませんけれども、だからといって、自分の殻に閉じこもるということはせず、神を信じる人たちを、広く覆ってしまった暗い雲を、見過ごしにすることもしなかったのです。 パウロはそのようにして、神様を信じる道の、右にも左にもそれません。救いに通じる細い道を、キリストと共に通ります。救い主に忠実な、このような人物を、わたしたちはどのように表現したらよいでしょうか。 ・・・彼は、個人的に感情を害したのではなく、神における義憤を感じたのです。パウロは、口論して、自らの義を主張したのではなく、主の救いに立ち戻りつつ、神の義を求めたのです。神の人は、怒りを誘うような、自分の身に降りかかったものを、丁寧に払い落とした後、もう一度、問題をキリストにあって取り上げ、教会の人々のために、それを担ったのでした。 みなさん、これが、パウロという人物を通して、神様がわたしたちに示された、正しい信仰の横の広がりというものです。イエス・キリストにある教会の、罪がなお残る信仰の交わりの、回復のあり方というものなのです。 2.正しい信仰を分かち合う ところが、パウロが、このような手紙を書いて、コリントの教会に送り、自らも訪問しようと準備しているとき、コリントの人たちの間では、何事かが起きていました。 教会の、心ある兄弟姉妹たち、パウロの手紙をよくよく読んで、神の御心を悟った人たちは、パウロを侮辱した人物に、それは、個人的な感情の問題ではなくて、神を信じる自分たちすべてに関わる問題であること、パウロ先生を悲しませたというよりも、わたしたちすべてを悲しませたということ、結局は、教会としてのイエス様への信仰が、どこか健全ではなかったのだということを、分かってもらうことができたのです。 「その人には、多数の者から受けたあの罰で、十分です」。 これは、今の時代には、滅多に起こらないことが起きた、ということです。わたしたちは、教会で、何か難しい問題が起こったとき、いろいろと見聞きして、うわさ話をするものの、最後には「自分と直接の関係がなければ、関わるのはごめんだ」という態度で、無責任に過ごしてしまいがちです。 しかし、このときには、教会員のひとりが、信仰から迷い出た場合、それは、周りにいるすべての信者の危機であり、キリストの体としての教会の質が問われているのであり、速やかに対処される必要があるとされたのです。 彼らはみな、ひとりの主イエス・キリストに属しており、その交わりの中心である主が、彼らをそのままにはしておかなかったのです。それは、ひとつの器官が病に侵された体のようなものであり、それは、体全体の痛み、特に、かしらであるキリストの痛みなのであると。 聖書には、神様を信じるひとりひとりは、ひとつの体の肢なのであって、すべての人は、そのかしらであるキリストの誉れとなるようにと、勧められています。コリント教会の、問題の人物にくだされた罰は、その人自身の矯正のためとか、集団の利益のためというよりも、イエス・キリストにふさわしい交わりを、教会において回復するという、より高い理由から、なされたものなのです。 神様を信じる道と言いましても、それは、罪人がつどい、神に頼り、共に清められていく道です。特に、人々が集まったときには、いろいろな出来事があることでしょう。 しかし、問題が起きたときでも、みながそのように、御言葉によって整えられているなら、キリストにある高い目的を見据えることができるなら、主にある交わりが、苛酷なもの、硬直したもの、いかがわしいものになることは、ないでしょう。 そして、パウロは今、その人に対する、教会としての処罰を、中止するように求めています。なぜでしょうか。それは、自分を侮辱した人が「過度の悲しみに打ちのめされてしまう」ようなことに、ならないためです。 パウロが、このように言うのもまた、個人的な理由、心情的な理由からではありません。自分の気が済んだからとか、優しさからではなく、イエス様への信仰からです。彼を処罰するようにと、一度は、コリントの人々に求めたはずのパウロですが、今度は、その厳しさから呼び戻して、彼を赦し、慰めるようにと、命じています。 主は、傷ついた葦を折ることをなさらない(イザヤ42:3)。聖書全体は、あらゆる点での行き過ぎというものに、罪深さを見ています。過度の正義。それは、間違いです。過度の喜び。それは、むなしいのです。過度の悲しみ。それは、死を意味します。そして、おそらくは、過度の信仰というものも-あるべきではないのです。 あらゆる行き過ぎは、人間を消耗させ、神様の御業を無用のものとし、人の心を頑固にしてしまいます。必要な場合には、人は、打ち砕かれなければならないでしょうけれども、それが過度のものであってはならず、決定的な挫折が起こってはならないのです。 神の福音が進んでいく、この時代においては、反対する者も友人たちも、処罰することも赦すことも、すべてのことが、イエス様との関係の中に、あり続けなければならないでしょう。個人的にではなく、交わりとして。あなたとわたしではなく、キリストとわたし。 わたしたちが、今一度、自分のあり方を改めて、そのように、すべてのことを見始めるならば-そして、今一度、主を信じるゆえに、すべての行き過ぎを避けようとするならば-それだけで、多くの悩ましい問題が、消えてゆくでしょう。 「そこで、ぜひとも、その人を愛するようにしてほしい」。人間が、小さな心を持ち歩いているにすぎない罪人同士が、このように勧め得るということが、キリストへの正しい信仰を共有していることの恵みです。 パウロは、この言葉を読む人たちが、自分の言うことを分かってくれる、それだけではなく、イエス様にある愛から、それまで処罰していた人を心から赦して、愛し始めてくれると、信じているのです。 もし、本当に、主にある人々なら、兄弟姉妹なら、それをする力があるし、してくれるであろう。・・・このことは、単純ですけれど、実に力強い、信頼に満ちた事実だと思います。 3.仲保者キリスト そのように、教会の中で起こった問題が、難しければ難しいほど、イエス様への信仰に帰るということが、本当に大切になってきます。「あなたがたが、何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが、何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前で、あなたがたのために赦したのです。わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は、心得ているからです」。 パウロが、また、わたしたちが、神様を信じた後、すべてのことは、「キリストの前で」、行なうこととなったのです。「それは、キリストの前で、あなたがたのために赦したのです」。信じる人は、自分の王の前に立つ兵士のように、イエス様の前に立ちます。 己の寛大さからではなく、主に対する愛の細やかさから、パウロは、人々を赦すことへと導いています。正し過ぎることで、人々の信仰が死んでしまい、交わりが絶たれ、ファリサイ派になってしまって、主が買い取られた人たちが、ダメになってしまわないように。 神様の恵みとは、次のようなものだと言えるでしょう。人を、自分に関して神経質でなくすると共に、神に対して熱心にし、罪に関して厳格にすると共に、罪人に対して寛大にし、主の御言葉を守ることについて用心深くすると共に、兄弟姉妹の言葉に関しては憐れみ深くする。 イエス・キリストの恵みは、そのようにして、蛇のように聡く、鳩のように素直なものであり、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13:7)愛を与え、人々が人間を追及するときに、同時に、神をも追求する知恵を与えるのです。 キリスト教会の中に、かつてあったこのような交わり、真の温かさから見ますと、わたしたちは、とても悲しい時代に生きていると思います。現代人は、自分に対する過度の関心の中に生きており、そのため、神の恵みの大きさに目が届かず、イエス様の栄光を仰いで、赦し合うということができないからです。 ひとつの問題が起きれば、もうその人との関係は終わり。その教会とも、おさらば。-それは、侮辱されてもなお、主と兄弟を愛し続けたパウロとは、何とも異なっています。牧師ひとりに、この真理を押し付けることも、解決にはなりません。最初に申し上げましたように、これは、教会の交わりの問題、ひとりひとりの問題だからです。 パウロは、このような、わたしたち現代教会の現実を、サタンの策略に乗せられてしまったものと、理解しています。「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためである。サタンのやり口は、心得ているからである」。 サタンは、人間の怒りだとか、生きる権利だとか、人の名誉という言葉、一見、正しそうな言葉を巧みに利用しながら、ただでさえバラバラになりそうな人間関係を、いっそう分裂させています。 わたしたちは、主の恵みに生きるようにされた者として、すべてを結び合わせてくださるイエス・キリストを、今日、新しく信じるようにいたしましょう。この方は、隔ての壁を打ち壊す神、あらゆる破れの間を癒してくださる仲保者なのです。
by PSALM23-6
| 2007-10-12 09:54
| 聖書からの説教
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Comments(4)
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PSALM23-6 at 2007-10-12 10:00
キリストを信じることと同時に、キリストの体である教会を信じるのは、実際には、なかなか難しいことです。キリストの救いに即した、共同体のあり方、交わりの秩序というものが、恵みにおいてあるはずなのですが、そのことに熟達することが少ないために、幼い交わりに大きな亀裂が入るということが、珍しくないからです。そのようなところで、救いの道にじっととどまり、忍耐強く群れや違反者を諭すことができる人が、必要とされているでしょう。牧師といえども、そのようなところでは、悲しみから抜け出すことは容易ではありません。どうか、主にあって恵まれている人たち、神の言葉によって、物事をただし、癒してください。
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Tom
at 2015-06-06 11:26
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こんにちは。この説教は書物からですか?
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PSALM23-6 at 2015-06-06 21:35
コメント、ありがとうございます。この説教のもともとは、バルトによる主題的教会論からとったもので、彼自身、教会での宣教として話しているものです。破れと痛みの多い共同体が珍しくなく見られる現代において、交わりというものが真に癒され、豊かになっていってほしいものですね。特に、主が血をもって買い取られた群れにおいては・・・。
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by
Tom
at 2015-06-07 13:09
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