わたしはすぐに来る

聖書箇所 ヨハネ黙示録3:7~13

 フィラデルフィアにある教会の天使にこう書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。
 「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい」』。

 わたしたちは、この聖書の箇所を読んで、アドベントの御言葉とは関係のない場所だと、思ったかもしれません。ただ、「耳のある者は」と、聖書は語っていたのであります。たとえわたしたちが、神の御声に聞く準備ができていたとしても、ここで言われている「ダビデの鍵」だとか「サタンの集い」、また「試練の時」という言葉が語られるとき、それが何を意味するのかを、たやすく理解するという訳にはいきません。
 けれども、これらの言葉と表象が、どういう主旨であったとしても、ただひとつのことは、わたしたちの心に留まったのだと思います。それは、このフィラデルフィアの教会は、主のご来臨を待つ心、アドベントの信仰に生きていた、ということであります。

 そのことはもちろん、わたしたちの場合とは、かなり異なった意味においてです。この教会にとっては、イエス・キリストをお待ちするということは、12月という月に、毎年一度、特別な時をみなで過ごす、ということではなかったのです。
 待降節、それは、言葉の本来の意味からすれば、主イエスのご来臨を待望する、ということです。神の子がもう一度来られて、世界のすべての決済をし、神の国を完全に到来させられる。主ご自身が、ここで「わたしはすぐに来る」と言われたのを、彼らはその耳で聞き取っていました。

 今日、キリスト教会では、このような神のご再臨を待つということは、残念ながら、あまり強調されていません。明日のことや、来月、来年の計画や行事について、教会が当然のように考えるのを見るとき、わたしたちは本当に、主の来臨を待っているのだろうか、と思ってしまうほどです。
 主イエスが再び来てくださる、そのことをあまり心に留めないがために、キリスト者の間でも、諦めや疲労感が、その人生を支配するということが、たびたび起こっています。この砂をかむような時間が、あまりにも長いために。・・・このフィラデルフィアの教会に宛てられた手紙は、やはり、わたしたちへ宛てた神様からの手紙でもあるのです。

 この教会においては、アドベントの望みが、隠された炎のように燃えておりました。「わたしたちの主が来られる!」。彼らはそのことをよく心得、苦しい生活と仕事を忍んでいたのです。
 実は、この手紙が語る神への期待とは、まったく違う待望というものもあります。それは、いつの時代にも現れた、終末に関する過信や誤解です。ヨハネ黙示録を自分なりに読み込んだり、解釈したりすることで、この世界の最後の道行きを、その詳細に至るまで、すべて予め承知することができると、ある人々は考えているのです。

 聖書が語っている、最後の時の迫害のひどさ、戦争や病気、飢饉の蔓延、反キリストと言い得るような、思い上がった指導者の台頭・・・。御言葉は、確かにこれらのことについて語っております。しかし、人は聖書をもとに、これらの事実が、十字架の恵みなしに必然であり、復活の希望なしに不可避であると考えるとき、すでに望みある信仰に生きることを止めてしまっているのです。
 むしろ、終末の時こそ、愛の冷えるそのときこそ、愛を否定せず、愛を燃え立たせる。これが、主を待つ信仰です。主イエスが、「わたしはすぐに来る!」と言われたとき、まさにそのような将来を固定してしまう試みを、打ち砕かれたのです。

 「すぐに」と、救い主は言われています。それは、何年かしたらとか、何世紀経てば、というのではありません。もしそのようなことであったとすれば、神の「すぐに」は、繰り返し延長されざるを得ない、間違った表現だったということになります。
 しかし、神が言われた「すぐに」は、時間のことを表現する言葉になっていないのです。文字通りには、キリストは、「わたしは早く来る!」と、「すばやく」、「思いがけず」来るのであると、言われているのです。今すでに、神のお越しというものは、わたしたちにとって意外な仕方で早いのではありませんか。信仰の薄い、わたしたちにとっては・・・。

 神の将来は、期待であると同時に、驚きと悔い改めの現在である。神の子の、第一回目の到来が、すでにそのようであったように、です。この将来は、すでに始まっているのです。「神の国は、近づいた」と、主イエスは言われたのです。信仰を持つわたしたちは、すでにこの神の将来を生きており、その究極の時を待っているのです。
 現在のわたしたちの幸せ、苦悩、痛み、思い煩いと困窮、そんな中でも、キリストは言われます。「わたしはすぐに来る」のだと。それが、世界の中で起こるのです、民族が争い、権力が幅を利かせ、貧しい者が何とか生きている状況の中で、主は言われます、「わたしはすぐに来る!」。この救い主は、そんな中にこそやって来られ、恵みを与えられる。これが、アドベントの信仰です。

 しかも、フィラデルフィアの教会には、主がすでに来てくださったことの痕跡があります。わたしたちが、まことに主を信頼しているのであれば、わたしたちにおいても、そのようでしょう。主がこの教会に来られて感じられたことには、「あなたは力が弱かった」と、そのように仰せなのです。
 それは、彼らを非難するのでなく、欠点を指摘するというのでもない、教会の人間的状況というものは、単純に「力が弱い」という事実です。そうした現実は、この方なしには、いつもそうなのです。フィラデルフィアにおける、その具体的な内容は、詳しく分かりません。教会員数の少なさなのか、教会内で分裂があるということなのか。あるいは、信仰の中身が、あまりに薄かったのか。

 教会は、また、人間は、何度でも、疑いや試練や、不確かさや疑問と、戦わざるを得ない。このことはまさに、現代を生きるわたしたちに当てはまります。「あなたは力が弱かった」。だが、この力弱い信仰の中に、キリストがすでに来てくださったことの痕跡が、見出されるのです。
 「見よ、わたしはあなたの前に、門を開いておいた。誰も、これを閉めることはできない」。これが、十字架の痕跡です。主は、そのように言われます。教会には、赦し赦される、開かれた門がある。なぜか。「ダビデの鍵」をお持ちの方が、それを開いてくださったからです。ダビデの子、イエス・キリストが、この門をもはや閉じないように、開かれました。

 このことは、信仰にきちんと立っているならば、わたしたちのことでもあるはずです。この門が開かれていれば、思い切って外へ出ていくことができます。また、外から中へ入ることも可能でしょう。フィラデルフィアの教会では、明らかにその両方のことが起こったのです。心開かれた人が、イエスの民となるということ、また、イエスの民となった者が、外へ出て行って、神の愛を伝えていったということ、どちらもがです。
 人間同士の頑なに閉ざされた門を開くということ、二度と閉ざさないということ、それらは、わたしたち人間の力には、及ぶところではありません。それは、「すぐに来る」と言われるお方が、実際に来て、してくださったことなのです。
 そして、フィラデルフィアの教会では、もうひとつの痕跡も明らかになっています。わずかな力でも、それは、ゼロということではないからです。「あなたは、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないとは言わなかった」。御言葉を聞き、それに従う。彼らは、大きな活動や成功を収めた訳ではありません。

 迫害の強い時代、それは、自由が制限されている時代です、それだけに、ささいなことが、大切になってくる時代でもあります。勇気のある一言、折れそうになる心を支えてあげること、そのようなことは、わたしたちが生きる現代でも、非常に重要なことになっています、あるいは、不正が行われているところ、人が貶められているところでの、抗議の声です。
 実社会において、それが学校であっても、家庭や職場であっても、主イエス・キリストの御名を掲げ続けるということは、無駄なことではありません。それは、小さな命の炎となって、信仰の火を灯す。成果やお金が賞賛される風潮の中で、「サタンの集い」と称されるような集まり、団体、人々というものが、今も昔もあるのです。
 けれども、来りつつあるお方は、敵をも友となされる、力あるお方であります。そのようなところにも、救い主は「すぐに来る」と言いたもう。このお方だけが、深い亀裂や破れた絆を癒すことがおできになります。

 わたしたちは、そのように、力弱き者、しかし、わずかな力をもって、すぐに来られるお方を待ち、主の開かれた門を進む者です。この道から外れる誘惑は、様々な形を取って、わたしたちの前にやってくることでしょう。
 それは、迫害や無関心だけではありません、むしろ、この国における誘惑とは、物質的な満足から来る心の飽満、自信たっぷりなその生き方という、致命的な姿を取ることが多いのです。主はそこで、この御言葉を聞くわたしたちに、「あなたは、忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえに、わたしもあなたを守ろう」と仰せになります。

 わたしたちが信仰をもって、心を配るべきは、この来たりつつあるお方を、忍耐をもって待ち望むということであり、この方がいつも近くにいてくださることを心得ている、ということです。それは、最後の試みの時にも、わたしたちを守るただひとつの盾となり、主はみもとにわたしたちを匿ってくださるのです。
 わたしたちの栄冠は、このようにして、「わたしはすぐに来る!」とおっしゃる主、その方ご自身であります。このお方を見失わないようにする、それが、「持っているものを、固く守る」ということです。
 主イエス様がおられればこそ、真の交わりの食事は、教会の中にあります。来てくださる主の臨在の中でこそ、誰に対しても閉じられることのない門というものが、存在するのです。御言葉を中心とした礼拝において、わたしたちはこの方の生きておられることを経験し、弱い力が強められるのではないですか。これが、主の痕跡です。
 わたしはすぐに来る。キリストは今、そう語りかけておられます。耳のある者は、聖霊が教会に告げることを聞くがよい!

by PSALM23-6 | 2017-10-18 18:10 | クリスマス説教集より | Comments(1)
Commented by PSALM23-6 at 2017-10-18 18:47
キリストなしの教会など、教会ではない。当たり前のことですが、実際には、それほど自明なことではないのです。主は、今来られるお方である。それであれば、人間のする心配や画策などは何の意味も持たず、主が来られる王の席を、きちんと開けて、わたしたちは待っていたいものです。教会には、主の痕跡があり、開かれたままの門があるのですから。
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